1月9日
2000年1月9日

「日々自分の十字架を負って」

ルカによる福音書9:17-27


群衆はわたしのことを誰と言っているか?」「あなたがたはわたしを何者だという

のか?」主イエスはこの二段階の問に答えるように弟子たちに促しています。主イ

エス・キリストと関わりを持つ誰もが、やがてこの問に直面するようになります。

主は一方通行で語られるだけでなく応答を求めておられます。そして、その応答の

如何によって、それ以後の生き方が全く変わってくるような、問いと応答へと導か

れます。

 群衆の声、「バプテストのヨハネだと言っています。エリヤだと言う人も、昔の

預言者が生き返ったのだと言う人も・・・。」しかし、ペテロは「あなたは神から

のメシアです」と答えました。群衆の声も、主イエスがただならぬ人であること、

神の特別な使命を帯びた人であることを認めています。ペテロの答えと群衆の答え

とはどこが違うのでしょう。それは、偉大さの認識の程度の差ということではない

でしょう。群衆が自分が偉大だと考える枠の中で答えているのに対して、ペテロは

イエスにおいて神からのものと認めています。神によってカリスマを与えられた人

という枠から離れて、我らのただ中にいる神の存在を感じ取っています。最も近く

にいて行動を共にした弟子たちは、主イエスをそのように見ています。それが主イ

エスのガリラヤの活動全体の総括でもあったでしょう。

 しかし、問題はこれからです。福音書は主イエスの存在の秘密を、全部書き終わ

ったところでではなく、半ばのところで明らかにして、それから、弟子たちにして

も、わたしたちにしても思わぬ方向に導いていきます。ペテロも「あなたこそ神の

キリストです」と告白したところから、その告白の真実の奥行きを知るための道に

入って行くことになるのです。これはわたしたちキリスト者のたどるべき道そのも

のでもあります。

 「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥され

て殺され、三日目に復活することになっている。」弟子たちもこの道を主とともに

たどることになるのです。ルカは他の福音書のように主をいさめるペテロについて

語りません。「自分を捨て、日々、自分の十字架を負って従ってきなさい」という

勧めに話しが進みます。「日々」、この言葉がルカが加えた言葉です。メシアの道

を共に歩み、主イエスが神からのメシアであると告白したものの歩みは、「日々」、

自分を捨て、自分の十字架を負うて従うの歩みであるとの実存体験からでた重みを

感じさせられます。


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