1月16日
2000年1月16日

「山上の変貌」

ルカによる福音書9:28-36


 主イエス・キリストはどのような方であるのか。その最も神秘的・超越的な姿は、

「山上の変貌」といわれる出来事によって弟子たちにご自身の姿を示されたときに

あらわされています。ペテロ、ヨハネ、ヤコブを連れて主は、「祈るために」山に

登られ、祈っているうちにイエスの姿が変わり、服は真っ白く輝くようになった。

モーセとエリアが現れ、語り合っていた。雲の中から声があって、「これはわたし

の子、選ばれた者。これに聞け」と声が聞こえた。このような姿を示されるとき、

わたしたちは主を何者だと言うことができるでしょうか。他の福音書と少し違った

書き方をしているところをよく見ると、そこに独特のメッセージを汲み取っている

のがわかります。まず、ルカはこの出来事の非神話化をはかっています。イエスの

姿が変わったことを、さなぎが帳に変わるような変化のしかたではなく、「顔の外

見が変わった」というような平板な言い方に変えていますし、それを見ていた弟子

たちが、「ひどく眠かった」と、もうろうとした状態での経験であることを強調し

ています。主イエスの神秘性を強調する方向ではないのです。次に、この出来事の

最も不思議な点、モーセとエリアが現れて主イエスと一緒に話していたことについ

ては、そのまま伝えています。千年も前の旧約を代表する人物たちが現れて話し合

うという想像を絶する光景です。しかし、これについて、「イエスがエルサレムで

遂げようとしておられる最期について話していた」、この言葉がルカ独特のもので

す。つまり、神の律法を伝えて旧約の神と人間の神の関係を決定したモーセと旧約

の預言者として神の生きた働きを伝えたエリアは、共に主イエスにそれぞれの働き

の最終決定を、主イエスのエルサレムにおける最期にあると考え、主に委ね託して

いる情景だったと理解しているのです。主イエスの変貌した栄光に輝く姿は、そこ

にとどまるのではなく、むしろ十字架にいたる恥辱と嘲り、排斥と死、そして復活

の歩みを指し示すものであるに過ぎないと語っているのです。

 主イエスの真の栄光の姿との交わりの経験、神秘の体験をペテロは、「ここにい

るのはすばらしいことです。ここに小屋を建てましょう」と、その興奮を表します。

しかしそれはルカによれば「何を言っているのかわからなかったからだ」と見当違

いのことと一笑に付されます。主の僕の歩みこそ、まことに主の栄光をあらわすと

いうのです。その歩みこそ「選ばれた者」の歩みだと。


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