ルカによる福音書9:37-48
主イエスの変貌を経験して山から下りてきた主イエスと3人の弟子を待っていた のは、大勢の群衆と困り果てた残された弟子たちでした。てんかんの発作にとりつ かれた子どもと父親、その現実になにもできない弟子たち。「この霊を追い出して くださるようにお弟子たちに頼みましたが、できませんでした。」主イエスはこの 子どもに取り付いている悪霊を追い出して「子どもを癒して父親にお返しになった。 人々は神の偉大さに圧倒された。」次に、二度目の受難の予告。「人の子は多くの 人の手に引き渡される。」弟子たちはその言葉を理解しなかった・・・。三つ目は、 弟子たちが誰が一番偉いのかと論じあっているのを見て、主イエスが子どもを前に 立たせ、「わたしの名のためにこの子どもを受け入れる者はわたしを受け入れる者 ・・・最も小さい者こそ最も偉い者」とかたられた・・・。一見脈絡のない話しが 続きますが、これらは皆、主イエスが何者であるか、わたしたちはどのように主に 従うべきかの問いと関わりを持っています。人の死、結婚とさまざまの時に関わり ますが、それらの時は、究極的にその問いにどのように答えるかによって死命が決 せるといっても過言ではありませんから、ここで浮かび上がらせている主の歩みは 重要です。 これらの話しを通じて見えてくるのは、弟子たちの姿勢と主イエスの言葉とのコ ントラストです。悪霊に憑かれた子どもに対して何もできない弟子たちと不信とゆ がんだ時代を嘆く主イエス、人の子は多くの人の手に引き渡されると予告する主イ エスに対して何もわからない弟子たち、誰が自分たちの中で一番偉いかと論じる弟 子たちに対して、最も小さい者が最も偉いと語る主イエス。ここには典型的に異な る二通りの生き方が浮かび上がります。主はこれを「不信でゆがんだ時代」と表現 されますが、何故に弟子たちと群衆の生きる方向が、不信でゆがんでいるのでしょ うか。上から下を見る目、健康な者が弱い者を見る目、力ある者が力のない者にあ われみをかけ手助けすることが救いだと考える目、弟子たちと病気の子どもを抱え ている父親、群衆は、このような偉大さの病に取り付かれているようです。この病 人は力の無いことを嘆くだけで、弱さと病の根元に迫ることはできません。弱い人 をもっと弱くするまなざしです。これを不信とゆがみと見る主イエスが選び取り、 自ら身をもって示し、進んで行こうとしておられる道は、自分を多くの人に引き渡 し、いと小さき者を受け入れる歩み、そのようなまなざしで主は見ておられます。