2月6日
2000年2月13日

「さいわいな目、さいわいな耳」

ルカによる福音書10:13-24


 72人お弟子の派遣に続いて、主イエスの「わざわいだ」と嘆きと、喜びをもっ

て帰ってきた弟子たち、そしてそれを喜ぶ主イエスと、悲しみと喜びが激しく交差

しています。

 コラジン、ベトサイダ、カファルナウム、この三つの町について「あなたは、不

幸だ」と嘆き悲しんでいます。ガリラヤ湖畔の小さな町々、ペテロの町、ヤコブの

町、主イエスが自分の町の会堂で話しをするのを聞き、五千人の給食のときには、

主の手からパンの一切れを口にした人々、主の福音から遠い人々ではなく、最も近

いところにいた人々について、「お前たちのところで行われた力ある業がツロやシ

ドンで行われていたら、これらの町はとうに粗布を身にまとい、灰の中に坐って悔

い改めていたであろう」と嘆かれるのです。主イエスの神の国の到来を告げる宣教

の結果は、新しい神の支配が広がって行くのを見たのではなく、受け入れることな

く、かたくなに自分の誇りの中に留まり続ける現実でした。神の国の福音は深い悔

い改めと立ち帰りをもたらすのではまりません。主イエスご自身の宣教でさえ、そ

のような結果なのです。昨日の悲しみはまた明日も繰り返されます。そのような町

を後に残して、主は十字架に向かって進んで行かれ、何の変革も起こすことのない

ような町に向かって、弟子たちを宣教に遣わされます。反応の大きさによって真理

を変えるのではなく派遣した方の言葉だけを忠実に伝えるように。すべての伝道者

よ!覚悟せよ。

 結果は、失望か?否、「72人は喜んで帰ってきてこう言った。『主よ、お名前

を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。』」主イエスと共に来る神の国を

告げ知らせるものは、なにかの手応えを感じて帰ってきています。主イエスの名の

権威と力が、奥深いところで動いているのを感じ取っています。「わたしは、サタ

ンが稲妻のように転から落ちるのを見ていた。」サタンが天から落ちるのは、これ

に先行する闘いが天で行われているからです。そしてその決着は付いたことを現し

ています。弟子たちの現実の闘いは敗北と挫折、無力な弱々しい働きに過ぎなくて

も、その働きそのものが「楽園の扉は開かれ、あがなわれた人々の名が命の書に記

される」新しい時の始まりを告げる。これらのことは賢いものや知恵のあるものに

ではなく。幼子のようなものに現される。このように小さいものに現される神の国

のはじまり、主イエスはこのことを「これはまことに御心に適ったことです」と激

しく喜んでおられるのです。


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