2月20日
2000年2月20日

「誰が隣人か」

ルカによる福音書10:25-37


 主イエスの「よきサマリア人のたとえ」は、「イエスを試そうとした」律法専門

家の問いから始まります。「試そうとした」と言うことはどういうことでしょう。

彼はもうすでに自分の中で答えを持っていたということです。すでに答えをもって

いる人として、この人は主イエスと対話しています。世紀末の断末魔の叫びをあげ

ているような現代の世界は、未だにこの問いに真剣に向き合うことにさえ到達して

いません。この人の問いに到達したばかりでなく。その答えも得ている。すなわち、

神を全身全霊で愛することと自分のように隣人を愛すること、ここに永遠の命を受

け継ぐ鍵があることを知っているのです。これは、旧約の信仰と文化の驚くべき到

達点です。主イエスも、「その通りに実行しなさい」と語られます。しかし、ここ

からさらに「自分を正当化しようとして」イエスに問います。「わたしの隣人とは

誰ですか?」自分のように隣人を愛することの重要性はわかっても、その言葉が浅

薄なきれい事になるのはなぜか。現実的な手応えのある課題にならないのはなぜか。

わたしを永遠の命に導いてくれる隣人、本当に愛すべき隣人に出会えないのはなぜ

か。このように問うて、自分のように愛すべき隣人を発見することが出来ないのは、

現代人そのものでしょう。

 主イエスのよきサマリア人のたとえは、まさに、ここから始まります。強盗に襲

われた人のところを通りかかった3人の人、祭司とレビ人、隣人とするには望まし

い人だが、その行動においては望ましくない人、サマリア人、隣人にはなりようも

ない人だが、近寄ってきて実に親切に世話をする人。ここで主は問われます。「誰

が強盗に襲われた人の隣人になったか?」あなたの隣人は誰かと問われるのではあ

りません。あなたの隣人、わたしの隣人はここでわきに斥けられ、強盗に襲われた

人の隣人が問われていること、これが革命的です。こうしてわたしたちはたしかに

手応えのある隣人を発見することができます。「愛とは、自己愛の放棄であって・

・・助けを必要とする隣人がいる場合に要求されて起こる自らを捧げる行為・・・

神の呼びかけはこのようにおこるのであり、その時隣人愛と神への愛は一つになる」

(ボンカム)。主イエス・キリストは、まさに天にとどまられるのではなく、傷つ

き、罪を負い、倒れている人、わたしたちのところに近づいてこられ、わたしたち

の傷を介抱してくださるだけでなく、永遠の住まいに導いてくださいました。この

主の隣人の見つけ方は、このサマリア人のようでした。


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