4月2日
2000年4月2日

「あなた方の目の光は消えていないか」

ルカによる福音書11:33-36


 「ともしびをともしてそれを穴蔵の中や升の下に置くものはいない。入ってくる

人にその光が見えるように燭台の上に置く」主イエスのこのたとえは、もう一つの

灯火をめぐるたとえと結びつけられています。「あなたの体の灯火は目である。目

が澄んでいれば、あなたの前進は明るいが、濁っていれば体も暗い。・・・」この

一つのたとえを結びつけることによって、伝えられていることは何か、これが、課

題です。

 ここで「灯火」によってたとえられているのは、主イエス・キリストの言葉と行

いです。その光は、人々の目に隠されているのではなく、燭台の上に置いた光のよ

うにすべての人を照らします。「神の指」によって悪霊を追い出し、「神の国があ

なたたちのところに来ている」と語られるようなときに、主イエスを知る者は立ち

会っているのです。それは、十字架の死と復活によっていよいよ明らかにされる大

きな明かりです。第二の灯火のたとえは、主イエス・キリストによって高く灯火が

かかげられているのに、その光に気づくこともない人があるのはなぜか、という問

いに関わっています。「あなた方の体のともしび」すなわち目が開いていなければ、

どんなに明るい光も暗闇になってしまいます。だから、「あなた方の目にある光が

消えていないか調べてみなさい」となるのです。主イエス・キリストの光を見るた

めに、内なる光によって照らされていなければ、光も暗闇になるというのです。

 作家遠藤周作氏の妻遠藤順子さんは、周作氏の最後のことを語っている文章の中

で、日常生活は絨毯を織るようで、織り上がって面を見るまではどういう模様にな

っているか分からない、というたとえを用いながら、周作氏がなくなった後裏返し

てみる生涯の模様を、「信仰を縦糸に病気を横糸に織り上げた生涯」だったと表現

しています。人の一生を見る目も、信仰の光によって見る目によって大いに違うで

しょう。わたしたちはどのような光のなかで主の光を見ているでしょう。

 わたしたちの内なる目を開き、永遠の命に導く光が見えるようにするには、わた

したちの力で目をこじ開けても、だめです。霊の目が開かれなければ、その奥行き

を見ることはできません。従って、この主の勧めが大切です。「求めなさい。そう

すれば与えられる。探しなさい。そうすれば見つかる。門をたたきなさい。そうす

れば開かれる。・・・あなた方の天の父は求める者に聖霊を与えて下さる。」



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