ルカによる福音書11:37-44
主イエスを十字架へと押しやったファリサイ派の人々と律法学者、ここではその ファリサイ派が問題です。ファリサイ派は紀元前2世紀より、ユダヤヘレニズム化 に抵抗するために出来た政治運動・信仰運動で、ユダヤの社会に大きな影響力を持 っていました。律法学者のように専門家集団ではありませんが、全国に組織を張り 巡らし、神の民イスラエルを「祭司の王国、聖なる国民」となるように自ら励み、 また国民を指導したのです。ファリサイ派になる資格は二つの掟の実行にありまし た。食事の前に手を洗うことと、収穫の十分の一を捧げることでした。手を洗うこ とは、今の感覚からすると当然のことのようですが、宗教的な意味合いをもってい ました。つまり、食事の前に手を洗うのは、神殿でははんさいをささげる祭司が厳 重に守らなければならない務めだったのです。これを日常生活の中で、祭司でない 平信徒が行うことに意義があります。国民全体が「祭司の民」として、「聖なるも の、選び分かたれたもの」になることを身をもって示しているのです。主イエスは ファリサイ派の人々と食事を共にする情景がこの福音書にはよく出てきますが、食 事前にファリサイ派の人々のように手を洗いませんでした。このような真面目な、 真剣な信仰運動に対してどうして協力し、共に闘ってくれないのかという思いが、 主イエスを迎えたファリサイ派の人の心にはあったでしょう。 主の言葉はまことに厳しいものでした。「実にあなたがたは・・・。杯や皿の外 側はきれいにするが自分の内側は強欲と悪意に満ちている。」これは常識に反して います。外側を清めることによって内側も清くなる。外面を整えることが、内面を 整えること、こう考えて人の生き方や宗教的な週間を教え、実行しているのが人類 のありようです。しかし、主は外側をきれいにすることが内側を外側と乖離させ、 強欲と悪意をため込むことになるという現実を明らかにします。さらに、もっとラ ディカルに、「愚かな者たち。外側を造られた神は内側もお造りになったではない か。ただ器の中にある物を人に施せ、そうすればあなたたちにはすべてのものが清 くなる。」これは、富める青年に言われたことと基本的には同じです。そして、そ こでもそうであったように、施しが問題ではなく、結局、自分の誇りや実績を手が かりに聖なるものになろうとすることは不可能であること、真の神、真の人である 主イエス、罪を真に取りなしてくださる方に明け渡して従うことが求められていま す。