ルカによる福音書11:45-12:3
受難週の日曜日、「神さまはなぜ十字架の上で死なれたの?」という大きな問い に対して、的を得た答えを得るためには、ファリサイ派の日ちびとと律法学者の精 神を理解することが鍵です。両者ともに当時の社会の中心的な担い手ですが、特に 律法学者は、捕囚から帰還したユダヤの社会の中核です。この人々によって、律法 に忠実な神の民が形成されていたのです。主イエスが、この律法の専門家について 批判しておられることは、「人に背負いきれない重荷を負わせながら、自分では指 一本も触れようとはしない」こと、「自分の先祖が殺した預言者の墓を建てている こと」、「知識の鍵を取り上げて、自分が入らないばかりか、入ろうとする人々も 妨げていること」、この三つです。第一と第三の批判は、教えるという尊敬すべき 行為の裏にある構造、第二は偉大な信仰者の行為を顕彰する行為の裏にある構造が 暴露されています。そこから、「覆われているもので現されないものはなく、隠さ れているもので知られずに済むものはない」と続きます。 このような善いこと、尊敬すべきことの背後にある裏の構造に、どれだけ気づい ているか、心理がより深く人間の全体を包むものであればあるほど、心理そのもの と現実の乖離、表面で行われていることと実際の心の動きの矛盾、思いと行動の離 反は大きくなることについて、どれほど誠実に認めることができるか。これは大き な問題です。「イエスの時代に花開いた墓碑建立のルネサンス」といわれました。 かつて殉教の死を遂げた預言者の信仰と言葉をたどり、そこから信仰の戦いと勇気 をくみ取るために預言者の碑がが建てられる。これのどこに問題があるというので しょう。主イエスは、そうすることによって、預言者を殺した先祖の仲間になって いるといわれるのです。今語られている生きた神の言葉は無視して、自分の枠の中 で理解した偉大な人をたたえているだけで、それは自分を顕彰していることに他な らないからでしょう。生きた神の語りかけには耳をふさいで、神の律法を一つ一つ に分断し、ケース・バイ・ケースの問題に仕上げ、自分の積みと向き合うことなく、 自分の誇りを確保するものにしているからでしょう。 主イエスは律法学者のこのような覆われた罪を露わにします。この批判者は、重 荷を負わせるだけで自分では指一本も触れようとしない方でしょうか? 主イエス はこの露わにされた罪を自ら担われたのです。