ルカによる福音書12:4-7
「体を殺しても、その後、それ以上何もできないものどもを恐れてはならない。 だれを恐れるべきか、教えよう。それは殺した後で、地獄に投げ込む権威を持って いる方だ。そうだ。いっておくが、この方を恐れなさい」。ここには、「恐れるな」 と「恐れよ」と二つの反対のことが勧められています。わたしたちが生きていく中 で恐れと不安はつきものですが、何を恐れ、何を恐れなくてよいかを識別できるよ うになることが成長することの証でしょう。ここで、主が語っておられる恐れは、 未熟なもの、子どもっぽい恐れなどではありません。死とそれを超えるものに関わ るものです。 目を転じて、主イエスの十字架と復活の情景のことを思い起こすと、そこに多く の恐れが描かれているのに気づきます。茨の冠をかぶせられ、十字架に釘付けられ た主イエスの姿、あの痛み、あの辱め、あの叫びは、見るものを恐れさせます。恐 るべき人間の死の中でも、最も無惨な死の姿を目の前に見た人々は、どれほど深い 恐怖を味わったことでしょう。弟子たちはイエスがとらえられたとき逃げ去りまし た。恐ろしかったからです。復活も、空虚な墓を見た婦人たちは「恐れることはな い」と語りかけられますが、墓を逃げ去り、震え上がり、誰にも何も言わなかった と記されています。恐ろしかったからです。弟子たちは「ユダヤ人を恐れて戸を閉 ざしていた」と記されます。よく考えると、十字架の時に感じた恐れと復活の時に 感じた恐れは、全く違う性格の恐れであることに気づきます。復活の恐れは、死の 無惨さに対する恐れではありません。思いもかけないことが怒ったことについての 驚きとともに、自分の中にある不信の壁を乗り越えられないで、目の前にある復活 の現実を喜んで受け入れられない恐れです。自分の不信を恐れているのです。しか し、この恐れはやがて、その事実に目が開かれさえすれば、喜びと力に変えられて いくものです。このような恐れを喜びに変える力のある主が、「恐れるな」といわ れるのです。これは主の復活にあずかるものが聞くことが出来る大きな慰めです。 しかし、この方が「恐れよ」と告げられることがあります。体も魂もゲヘナで滅ぼ す権威を持っておられる方がいるというのです。しかし、その方は雀の命をも支え ておられる方、また、わたしたちの頭の髪の毛も数えている方です。その方によっ て遣わされた一人子によって、友のために井の知恵尾捨てる愛を示され、その愛に 迎えられています。だから、「恐れるな」が究極の言葉であるのです。