ルカによる福音書12:8-21
ルカによる福音書は、他の福音書で別々のところで語られてた主イエスの言葉を 一つに合わせ、そこで独特の指針をわたしたちに伝えています。ここで挙げられて いるのは、人々の抵抗と反対のなかで、人々を恐れることが問題です。また、兄弟 との遺産争いの中で、主イエスに解決を求めたのに対し、「自分のためだけ富を積 んでも、神の前に豊かにならない」人に対して、「愚かな人だ」との主の警告が語 られます。この警告を聞かなければならないのは、まさに日本の現在のわたしたち の状況ですが、主イエスの存在と福音は自分を豊かにするためだけ価値があり、力 があると考えて、それを利用しようとし、この世の政治的な力に利用する、これは、 わたしたちの家にひそむ深い罪の姿をあらわしています。主イエスに従うより、わ たしたちの求めを主とするのです。そうでなければ、無関心になる、これも福音が わたしたちの心でも、この世でも出会う困難です。 主イエスの言葉は強力な慰めです。誰もほかに信じる人がいないとき、孤立した 孤独な信仰の戦いをするとき、また権力者の前に引き出されて信じることを捨てる ように求められるとき、確かに、そのような働きは、ハードなかたちでも、また冗 談やからかいの形でも、昔も今も、キリストにあるものは経験してきたことですが、 そこで、恐れる必要はない、と主が語られます。ただ独りの孤独な信仰の戦いと見 えるこの地上における状況は、天の視点から見れば、多くの天の軍勢の前で、主を 告白している状況です。いや、そこでは、わたしが主を告白しているのではなく、 主がわたしのことを告白している事態なのだと教えています。またわたしたちが自 分を護り、弁明すべき言葉を持たないとき、そのときこそ、聖霊が語るべき言葉を 教えてくださるときだ、と。 ですから、わたしたちの家に働いている主の愛を告げ、主を告白し、証しするよ うに押し出してくださる主の聖霊の働きが、なかったかのように押し殺してしまう ことは赦されません。主イエスはわたしたちの最も低いところで、わたしたちが辱 められるとき、もっと深く辱められ嘲られます。批判と憎しみを引き受けてくださ います。しかし、その愛によって、そこで成し遂げられた罪を義とする神のみ業を、 なかったかのようにしようとする者はさばかれます。またその存在そのものが消し 飛んでしまうでしょう。「聖霊を冒涜する者は赦されない」という権威ある言葉は、 困難な中で信仰の戦いをする者にとって、支えとなる境界線です。