5月21日
2000年5月21日

「灯火をかかげて待つ」

ルカによる福音書12:35-48


 「主人が帰ってきたとき目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いである」

 ここには婚宴から帰ってくる主人を待つ僕の話と、時間通りに僕仲間に食事を分

配するように命じられて主人の帰りを待つ僕の話と、二つの主イエスのたとえ話が

書かれています。どちらも、わたしたちの生活感覚からは、遠い話ですし、また主

イエスの時代にあっても、ここに話されていることは、種蒔きのたとえのようにど

こにでもある話、というのではなく、とても特殊な出来事と関係が描き出されてい

ます。婚宴の席に出掛けた主人が帰ってくるのを待つ僕、責任と任務を与えられて、

しかもいつ帰ってくるかはっきりわからない主人を、いつでも用意して待つ姿、ま

た食事の分配の責任をまかされているのに、召使いを打ちたたいたり、殴ったり、

酔っぱらったりして無責任な生き方をする僕に裁きが告げられます。ここでも、「

待つ僕」の態度が問題です。

 キリスト者は「待つ僕」なのでしょうか。キリスト者は、むしろ今に生きる人、

キリストと出会い、神の国の現実の中に生きる人だということもできます。しかし、

主は、ここで「待つ僕」の姿をもってキリストの弟子たちの生き方を示しています。

待つ人は、今の時にではなく明日の時に向かって生きている人です。明日の時に向

かっていきているからといって、何もしないで明日を待つのではありません。特別

な任務と責任と役割を与えられて、その働きを果たしつつ待つ「僕」です。このよ

うに待つ人は、今暗闇の中にいるときにも、灯火をかかげて、腰に帯をして待つの

です。暗闇の中に埋没して生きるのではありません。この装い、この待つ人の備え

は、わたしたちにとってどのような生き方を指し示しているのでしょう。

 わたしたちの教会は、いま一つの完成の時の中にいます。20年間待った教会堂

が完成したのですから。

 「見よ今は救いの日、恵みの日」です。そのわたしたちに、「待つ僕」のたとえ

をもって主は、今の時をどのように生きるかを教えられます。今は終わりの時では

ありません。新しい器は、責任と役割をもって主の帰りを待つための器であると。

 今ひとつ、このたとえの中で興味深い情景は、主人の帰りを灯火をかかげて待っ

た僕たちは、主人が食卓につかせて主人が給仕をして下さるところに招かれていま

す。主人が僕になっているのです。「よく待った僕」は、このような饗宴にあずか

っているのです。


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