ルカによる福音書12:49-54
「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。・・・わたしが地上に平和 をもたらすために来たと思うのか。そうではない。いっていくが、むしろ分裂だ。」 ここで語られる主イエスの言葉は衝撃的です。平和と和解の主であるはずの主イエ ス・キリストは、ここでむしろ対立と分裂をもたらすものです。平和で安心できる 平穏な生活は誰しもの願いです。わたしたちの祈りの内容は、おおむねそのような ことです。ところがわたしたちの祈りを聞き、わたしたちのために取りなして下さ る主イエスご自身が、地上に、火を投じ、対立と分裂をもたらすために来たといわ れるのです。 「地上に火を投じる」と言われるのは、ここでは文明の火を投じるとか、燃える 思いを与えるという意味ではありません。旧新約の聖書で「火」は、主として焼き 尽くすもの、滅ぼすもの、それによって上の裁きが行われ、滅ぶべきものが滅び去 るための働きをするものです。しかし、また火は終末の上の裁きを現すものとして、 同時に燃え尽きることのないものを精錬し、より純化する働きをします。このよう な両面的な働きをするのです。福音書記者ルカが「火」について語っている印象的 なところがあります。イエスの生涯のはじめ、バプテスマのヨハネが自分の後に来 るべき方について、「聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」と語っていま すし、また使徒言行録でペンテコステの出来事を告げるとき、「突然炎のような舌 が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」と記されているのです。この 火の経験が使徒たちを新しくしたのです。 このようにして見ると、主イエスが地上に火を投じるものであるということは、 そこで投じられる火がどのような性質のものであるかが分かります。また、主イエ スに出会って生きるということが火と出会うことであれば、それによって歩む生活 は、わたしたちの願う平和と平穏などでないことは明らかです。 注目すべきもう一つの大事なことは、この「火」と主イエスとの関係です。火を 投じるイエスは、それを上から眺めている冷酷な神ではありません。この「火」は ただちに「わたしが受けるべき洗礼」、すなわち、ご自分の苦難と死とを結びつけ られています。火によってさばきを受け、消え去るべきものが燃やし尽くされ、燃 え尽きることのないものが精錬されること、平和ならざることを経験するのは主ご 自身です。その主の苦しみにあわされるものが、また新しくされるのです。