ルカによる福音書14:15-24
ファリサイ派の指導者の家。安息日の午餐の情景の続き。参加者の一人が「神の 国で食事をする人こそさいわいです」といったことに対して、主イエスがたとえを もって語られました。盛大な宴会の準備が出来たので招待した人を呼びにやらせる と、口々に土地を買ったから、とか結婚したからといって断って、誰も招いた人は 来なかった。そこで、空席を埋めるために、通りに出かけていって、「貧しい人や 足の不自由な人、目の見えない人、歩けない者などを呼んでくるように、といった 話しです。こんな惨めな宴会を催す人などめったにnいないでしょうし、また代わ りにだれかれとなく呼んでくるというのも考えられません。このような考えられな いような情景こそ、神の国で主とともに食卓にあずかる者の姿、教会の群です。 マタイによる福音書22:1−10でも、このたとえ話は取り上げられています が、詳細は大きく違っていますし、また強調点も違っています。マタイの方では、 道に出ていってだれかれとなく呼び集めた人々の中に礼服を着ていなかった人がい て、この人を主人が追い出すというところに重点が置かれていますが、ルカにはそ れはありません。むしろ、ルカは、「貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、 足の不自由な人など」を連れてくるようにいって、すぐ前のところにある食卓に招 待すべき人は、兄弟や親戚、金持ちの隣人ではなく、・・・のことばと重ね合わせ ているところに主眼がおかれています。つまり、神の国で食卓に招かれているのは、 社会の中で捨てられたような人、無用な者とみなされている人、招かれるに価しな いような人々であることが強調されているのです。まさに主イエスによる神の国へ の招きは、「他に類例のないもの、古今未曾有のもの」です。主イエスの招きは、 このような人に対して激しく執拗です。激しい情熱を感じます。 わたしたちの教会の40年の歴史を振り返るとき、どれほどの多くのドラマがあ り、奇跡があり、暗闘の体験があり、また感謝があるかを思います。その40年を 記念する礼拝を、「この十字架のもとで」、主の食卓を囲む共同体として守ること ができることは、何と幸いなことでしょう。主がわたしたち一人一人を招いてくだ さったのは、まさにこのたとえをもって示されるような次第であったと確認するも のは、また新たな招きを伝えることができるものになるでしょう。