7月23日
2000年7月23日

「主イエスの弟子になること」

ルカによる福音書14:25-35


 主イエスについてくる多くの群衆に対して、主が、立ち止まって、振り向いて語

られた主の弟子になる条件は驚くほど激しいものです。「父母、兄弟姉妹、さらに

自分の命であろうとも、これを憎まないならば・・・」、「自分の十字架を負って

ついてくるものでなければ・・・」、「自分の一切の持ち物を捨てないならば・・

・」。すぐ前のところでは主の食卓に招かれる人は、貧しい人、体の不自由な人、

目の見えない人を、誰であれ無理矢理に連れてきなさいと語られた主がこのように

語られます。とりわけ、父や母、兄弟や自分の命さえも「憎まないならば」わたし

の弟子であることはできないと言う言葉は衝撃です。これは、戦時中にできた「日

本基督教団信仰問答」のイエス・キリストはどのような方かについての答え、「ヨ

セフを父とし、マリヤを母とする家庭に育ち、幼児より敬虔にして孝悌、神と人と

に愛せられ成長したもうた。若くして父の業を継ぎ、勤労の生活を営み、謙遜にし

て律法のもとに服し・・・」という奥行きのない自家製のイエス像とは全く違いま

す。また、十戒の「あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神主が与

えられる土地に長く生きることができる」という戒めとも矛盾しています。

 他のところでは、主の弟子になることによって、世の人々はあなた方を憎むだろ

うといっています。しかし、憎まれることと憎むこととは大分違います。父や母、

兄弟、そして自分の命までも憎まなければ、弟子になることはできないというのは

なぜなのでしょう。それは、十戒の一つ一つの戒めが激しい禁止の形で書かれてい

るのとよく似た理由、すなわち、そこに生と死を分ける境界線があることを示して

いるからでしょう。父と母を愛すること、肉親を愛すること、そして自分を愛する

ことは自然の感情のようですが、その愛も究極の愛、生と死を越えて支えることが

できるものではないこと、命に至る道は、その命を主イエスに従って捨てることに

向かわなければ、生きるものではないことを明らかにしています。肉親への愛も自

分への愛も、それ自体では限りのあるもの、尽きてしまうものです。このことに思

い至らない愛の破れは現代の社会では多くの例を見ることができます。究極の愛は

命を捨てること、そこに命に至る愛と語るのです。主はそのような道を歩まれます

し、またそのような道に従ってくるものを、待っておられます。



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