ルカによる福音書15:11-24
放蕩息子を迎える父のたとえは、後半の兄の態度によって、自分を義とする人間 の心を、深いリアリティーをもってあらわにします。この兄の態度は、弟が帰って きたので祝宴が開かれていることを知ったとき、「怒って家に入ろうとはしなかっ た」ところに問題があります。なぜ怒ったのでしょう。誰に対して怒ったのでしょ う。弟に対してではありません。父に対してです。弟と差別扱いされたことを怒っ ているのではありません。弟を無条件で迎えた、父の愛情深い態度に対して怒って いるのです。つまり、父の義を不義と告発しているのです。なぜその愛が怒りとな るのでしょうか。それは、自分の生きていく根拠が揺るがされたからでしょう。堕 落した、遠くに行ったふしだらな弟のような生き方が、この兄にとっては自分を支 える支柱でした。ということは、この人の生き方を支えるために、堕落した弟、そ の堕落そのものが必要であったことになります。このような支えで生きていく生き 方は、悔い改めて帰ってくるような人間の可能性を認めることはできないし、まし て、それを喜んで迎えることもできません。人間の文化や文明、繁栄などを支えて いる構造は、このような心と深くつながっていることを認めることができます。わ たしたちの信仰も、そのような不自由さに陥ります。 ここでも、父親の態度は驚くべく破天荒です。中に入ろうとしない息子に対して、 自分の方から「出てきてなだめた」のです。「なだめる」という言葉には、助けを 求める、強く勧める、励ます、懇願する、要求する、鼓舞する、元気づける、など の意味も含まれます。そばにいて語りかけるという意味が基本で、聖霊がわたした ちに働いてくださる働き方を想像するとよくわかります。ここでも駆け寄るのは父 の方です。そして、興味深いことに、怒る兄に対して、その態度を非難し、変えさ せようとしてはいません。ただ、弟を迎えて祝宴をすることは、自分にとっては必 然だったことだけを理解させようとしているのです。父の必然について理解を求め ているだけです。しかし、もしこの父の必然を父と共有できたら、この兄も本当に 解放され、自由と喜びと感謝を知る人として生きていくことができるはずです。 天の父の心を知る主イエスは、父のすべての人に対するこの期待と必然を知る故 に、また自分の義の故に不自由になっている人をなだめる人です。