9月10日
2000年9月10日

「人に尊ばれるものは、神に忌み嫌われる」

ルカによる福音書16:14-31


 ルカによる福音書だけに記されている金持ちと貧乏人ラザロの話し、これは、主

イエスの言葉をあざ笑ったファリサイ派の人々に介して、「人に尊ばれるものは、

神に忌み嫌われる」という、激しく鋭い言葉を例証する話として語られます。話は

実に簡単です。死ということを境に、全く逆転する二人の人物の物語です。ある金

持ち、毎日贅沢に遊び暮らし、まさに輝きのある人生を送っています。自分の門前

に横たわっている貧乏人のラザロのことなど、気にも留めません。しかし、名前を

知らないわけでもないのです。要するに、この金持ちの生き方は、自分の宝も、ま

た多くの人も、自分のための道具、自分の欲望や快楽のための手段としているとい

うことです。わたしたちがあこがれる世界、輝きに満ちている人の生き方は、この

人物がよく描き出しているといえるでしょう。一方ラザロ、「できものだらけの貧

しい人」。金持ちの門前で、その食卓から落ちるもので飢えをしのいでいました。

彼を慰めるものは犬以外にはありません。人生の敗残者、落伍者。ところが、彼が

死ぬと、アブラハムの懐に迎え入れられ、まさに彼の名前の通り「神は助けられた」

となるのです。これに対して、金持ちも神で、炎暑で焼かれもだえ苦しむ命が用意

されていました。しかも、はるか彼方でラザロがアブラハムと共に宴席にいる光景

を見ながら、激しい光景を見ながら、激しい渇きに苦しめられる生活です。此方と

彼方とは声を交わすことはできるが、深い溝があって越えることはできないのです。

 さて、このような逆転、ある時を境にして全く別の境遇が待っているということ

を考えることができるのは人間の特徴でしょう。その逆転を契機に、それまで快楽

があったものは、むしろ苦痛の種になること、これは死だけでなく、他にも考えら

れます。人間の支配から神の支配に世界がわかったら、もちろん今大切だと思って

いること、命がけだと思っているもののほとんどは無意味になってしまうでしょう。

問題は、そのような逆転がだれの人生にも確かにあることが明らかであるとき、こ

の時にも、あの時にも耐えることができるような生き方をしているか、そのような

関係をつくるような交わりを、神と隣人との間で持っているか、ということです。

世界のはじめと終わりを知っておられる主イエスは、時の終わり、時の変転を支配

されるだけでなく、その変転によって変えられる命の行く末をも知っておられます。

次の時を知るものです。



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