9月17日
2000年9月17日

「からし種一粒の信仰」

ルカによる福音書17:1-10



 「わたしたちの信仰をましてください」と弟子たちは主に求めました。「つまず

きをもたらす者となってはならない。これらの小さい者の一人をつまずかせるより

も首にひき臼をかけられて海に投げ込まれてしまう方がましである。」「兄弟が罪

を犯すなら戒めなければならない。悔い改めるなら、何度でも赦さなければならな

い。」すぐ前のところには、このような弟子たちに対する要求が記されています。

ここで求められていることは、きわめて内面的な、霊的な領域のことです。そこに

おいて確かな生き方をすることができるために、信仰を増し加えてくださるように

主イエスに求めること、これは、まことに切実な求めだと思います。真摯な求めで

す。伝道者が、キリストの奉仕者が、真剣にその務めを果たそうとすればするほど、

「信仰をましてください」という求めは切実です。神との関係の強化が、霊におけ

る成長が、何よりもなければならないと考えるからです。

 しかし、主イエスの言葉に注意しましょう。主イエスは、そのような求めに対し

て、一見何も答えていないかのような答えをします。「からし種一粒の信仰があれ

ば、この桑の木に抜け出して海に根を下ろせといってもいうことを聞くだろう」と。

実は、この答えによって、弟子たちの願い、また、わたしたちの願いが、「信仰が

仰ぐものを見ず、信仰が立っている基礎に立っていなかった」(A・シュラッター)

ことを明らかにしています。すなわち、そのような求めによって、自分たち自身の

ことに目を注ぎ、自分たちの信仰、その信仰の大きさ、神の働きを呼び起こす力の

方に心を奪われて、真に仰ぐべき神の慈しみと、無条件のあわれみから生きていな

いことが明らかにされています。「からし種一粒の信仰」は、わたしたちの側の信

仰の大きさに対する心配を取り払います。信仰の程度や力強さに目を奪われ、それ

が人間の能力のようになっているとき、霊は枯渇し、力強さはむなしく消耗される

でしょう。そこでなされる「奉仕」は感謝と報酬を求める性質のものとなり、無力

感と義務感に駆られただけの奉仕になるでしょう。主イエスの奉仕者は、「わたし

はとるに足らない僕です。しなければならないことをしただけです。」このように

いつも主に向かって語ることができるような奉仕者であることが求められています。

そのとおり、主イエスは、まさにそのように「僕」として奉仕を全うされたのです。




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