9月24日
2000年9月24日

「応答する信仰」

ルカによる福音書17:11-19


 10人のライ病を患っている人たちが、大声で「主よ憐れんで下さい」と叫び、

主はその声に耳を傾けられます。一見平穏な世界も、主が通られるところでは、地

獄が裂けて現れたように、人間の苦悩があらわにされます。そこに主の目は注がれ

ます。この人たちは、主の言葉を聞いて、祭司のところへ行く途中で自分達の病気

が治ったのを感じました。そしてその内の一人のサマリアの人だけがイエスのもと

に帰ってきて、ひれ伏して礼拝し、感謝の気持ちを表します。主は「ほかの9人は

どこにいるのか?」と問われました。一人だけの事態に目を止められるのです。

 主の問いに導かれて、ここで何が問題であるのかを考えてみましょう。一人対九

人、何が違うのでしょう。10人のライ病人が主イエスに憐れみをこうたとき、彼

らは主に対する信頼と熱い願いにおいて違いはありません。彼らは主の名を知り、

主のもとに赴き、主の言葉を信じて、従い、祭司のところに出かけています。まだ

癒されてもいないときに、言葉だけを信じて行動したのです。大胆な信仰。そして、

幸いなことに、この人たちはその信仰にふさわしい報いを得ています。信ずべき方

を信じたからです。

 しかし、これでいいのか、これがここの問題です。自分の求める者を得た、それ

で喜んで帰ってしまった信仰を、そのことを神に感謝し、賛美するためにかえって

行かなければならぬと感じる信仰と、これをある人は一過性の信仰とせいれいによ

る生きた信仰との違いといいます。全人格で応答する信仰と自分の求めだけのとこ

ろで完結する信仰との違いということもできます。主イエスは、この違いを強く意

識しておられます。どうしてか、それは、9人の忘恩に腹を立てているためではな

いでしょう。信仰は交わりであって、応答する信仰によって、主との交わりが開か

れ、一時的な、表面的、身体的な救いの段階から、永続的、全人格的、生命的な主

のいのちにあずかる交わりへと導かれる可能性を、自ら断つものに対する嘆きでし

ょう。

 「立って、生きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」主は帰ってきたサマ

リア人にこのように語りかけておられます。この人の病気が癒されただけでなく、

主の言葉による交わりの中で生きる者となっています。主は、単に一時的な癒しだ

けでなく、ご自身の死と復活のいのちを与えてくださるために、わたしたちを信仰

に招いてくださるのです。



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