9月24日
2000年10月1日

「神の国はあなたがたの間にある」

ルカによる福音書17:20-37


 エルサレムに向かう途中、ファリサイ派の人々が、主イエスに、「神の国はいつ

来るのか」と問うたとき、「神の国は見える形では来ない。『ここにある』とか『

あそこにある』と言えるものでもない。実にあなたがたの間にあるのだ」と語られ

ました。神の国の到来について、国中がわきたつように考え、メシアへの期待が様

々な形の運動をひきおこしていた主イエスの時代のイスラエルと、あまりそのよう

なことを真剣に考えることのない現在とでは、ここで主が語られていることの受け

とめ方も変わってしまっていると思いますが、注意深く聞き取ることに努めましょ

う。

 神の国は「あなたがたの間にある」と語られます。それは、当時多くの人々が期

待していたように、征服者ローマを圧倒して軍事的な勝利を収めるような形で来る

ものではなく、いつ、何処でと場所的時間的に特定できるような形で来るものでも

ないことを明らかにしていることはわかります。しかし、「あなた方の間」にある

神の国とは、どのような国なのでししょうか。よく誤解されるように、これは主イ

エスの弟子たちの「心の中」にあると理解することはできません。神の国は歴史的

な現実のことではなく、心理的な問題だと考える伝統はユダヤにはないからです。

ということは、「あなた方の間にある」は、主イエスの存在を中心に、主と弟子た

ちの関わりの中に、神の国、神の現実的な支配があるということです。すると、「

あなた方の間にある」は、今すでにあると理解すべきなのでしょうか、それとも将

来あるだろうと理解すべきなのでしょうか。これは、後の方で、人の子の日が、「

稲妻がひらめいて、天の端から端に輝くように、人の子もその日に現れる。しかし、

人の子は、まず必ず多くの人のために苦しみを受け、今の時代の人たちに排斥され

る」と語っていることと、どのように整合させるかの問題とも関連します。ここで、

主が語っておられることは、神の国が突然に、予期せぬ形で来るにしても、どこに

メシアを求め、救いを求めるかについて、思い煩いも心配もいらない。まさに、あ

なた方のただ中にいます主イエス・キリスト、その方とともにおり、その方が共に

いてくださることを明らかにしておられるということです。終わりの日の備え方は、

恐るべき未知の出来事に向かってではなく、主とともにある現実に向かって開かれ

ます。




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