ルカによる福音書18:9-17
主イエスは、わたしたちにあきらめずに熱心に祈り続けることを求めておられま す。それと同時に、正しい祈りと、そうでない祈りがあることも教えておられます。 神に聞き入れられる祈りと、聞き入れられない祈りがあるというのです。そのこと を理解するために、ファリサイ派の人の祈りと徴税人の祈りという二つの祈りをわ たしたちの前に見せてくれます。祈りを教えられると言うことは信仰の基本、命を 得るか失うかの生命線にかかわることですから、ここからよく学ばなければなりま せん。 ファリサイ派の人の祈りは感謝の祈りです。感謝の祈りをすることがどんなに大 切なことか、主はそれをどんなに喜んでくださるかは、疑う余地はありません。し かし、この人の感謝の祈りは独り言に終わっているのです。「神さま。わたしたち はほかの人たちのように奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、またこの徴 税人のような者でも」。神を謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の10分 の一をささげています」。神を愛し隣人を愛する生活の見本のような生き方ができ ていることを感謝していますが、ここには自分の誇りをアピールするだけで、神の あわれみや隣人の支えについての認識はありません。神と隣人不在の独り言の「感 謝」の祈りです。 徴税人の祈り、超前任が祈ることがあるということ自体ユダヤの常識からすれば 衝撃的なことなのですが、この人は、「遠くに立って目を天に上げようともせず、 胸を打ちながら・・・」と記されているように、悔い改め、主のあわれみを求める 祈りをしています。「神さま、罪人のわたしを憐れんでください。」感謝の祈りよ りも悔い改めの祈りの方が正しい、聞き入れられる祈りというのではありません。 どちらの祈りも大切です。しかし、この徴税人のお乗りは真に生きている神と向か い合っているのは確かです。そして、神に立ち帰った罪人として、ひたすら憐れみ を求めているのです。主イエスは、この二人の祈りで聞き入れたのは、後者の方だ とはっきりと語られました。主イエスは、わたしたちの祈りの中に、この二種類が あること、つまり感謝をしているが独り言になる祈りと、罪人であっても真に生き ている神と向かい合う祈りがあることを知っておられます。「主よ、憐れんで下さ い」の祈りは、キリエ・レイソンという教会の最も古い祈りとして多くの人が祈る ことばになりました。この祈りもまた独り言になる可能性を含んでいます。