ルカによる福音書18:31-43
人の死を覚えることは、人間の全体を見ることを意味します。人間の生が死によ って限界を画されるというだけでなく、どのような希望を持って死を迎えたか、ま た死を身近で経験した人がどのような希望を持ってそのときをすごしたかによって、 生命全体の質が決定されるところがあると思います。 主イエスは、ここで自らの死について予告していますが、その予告されている内 容はすさまじいものです。「人の子は異邦人に引き渡され、侮辱され、乱暴な仕打 ちを受け、唾をかけられる。彼らは人の子を鞭打ってから殺す。そして人の子は三 日目に復活する」。エルサレムに上って行く直前の受難の予告は、きわめてリアル に、まるでご自分の死の設計図を示すように語られています。何故に、このような 悲惨な、最も憐れむべき人間の死を死んでいくことを、主イエスは予告されたので しょうか。これは助けを求める叫びではありません。また、つらい日常から死へと 逃避することに慰めを見出しているのでもありません。これは、12弟子、ご自身 の生涯の使徒復活を証しする使徒たちに、これからおこるべきこと、特にその最も 厳しい時を示すと共に、その先にあるものをあらかじめ示すことによって、それぞ れの時を主と共にしっかり経験させるための配慮であったでしょう。しかも興味深 いことに、主イエスは、こおkでご自身の死と復活が全人類に対して持っている罪 の赦しや神との和解などの大きな意義については何も語っておられません。意味に ついては語らないで、出来事についてあらかじめ語っておられるのです。これは試 みを通してわたしたちを訓練される主イエスの訓練方法です。 不思議なことに、このように終わりに向かって一途に進んで行かれる主イエスに 対して、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫ぶ盲人の乞食の 話が、これに続いています。憐れむべき終わりを迎える人に哀れみを乞い求める乞 食。この人は、確かに目を開けてもらいましたが、その開かれた目ですぐに見るこ とになるのは、自分の目を開いてくれた方の十字架の姿です。これはこの人にとっ て救いとなったでしょうか。主のかけてくださるあわれみがどのよううな深みから のものかを知って、自分に与えられた神の救いが、それまでの生き方を変えてしま うほどのものであったことを知るでしょう。主はまことに、そのようないやしを、 わたしたちの間で行われます。