ルカによる福音書19:11-27
マタイによる福音書ではタラントのたとえとしてしるされているものが、ルカで はムナのたとえになっています。しかも、マタイとは違って、王位を得るために遠 くを旅をする貴人の僕たち10人に10ムナが渡され、それぞれ1ムナずつをどのよう に使ったかが後で健勝されます。主人の王位継承に反対の住民が使節を送って、国 民の意思を伝えるが、結局、後で王となった主人に報復をうけるというプロットも 含まれていて、随分複雑な構造です。これは主イエスの時代の歴史的な出来事を背 景としていると考えられますが、そこに立ち入ることはできません。ルカはこのた とえをエルサレムに入って行く直前、神の国がすぐにも来ると思っている弟子たち に語った、としていますから、これによって、政治的・軍事的な出来事としての神 の国の到来を期待している弟子たちに、そのようなものとは全く違ったメシアの到 来に備える道を教えていると考えることができます。 このたとえの中核は、託された資金の使い方をめぐって、忠実な僕と称賛され多 くの報酬を与えられる者と、不忠実な者として持っているものまでも取り去られる 者と、二通りの生き方があるということです。忠実な者の忠実さはどこにあるか。 それは、託された者が有用なもので活用する価値があると考えて、それを知恵の限 り、力の限りを尽くして用いた、ということです。あるいは、託されたものの流動 的な性格を見抜いて、どのように流動されるかに知恵を汗を用いたとも言えるでし ょう。その根源は、託してくれた主人に対する基本的な信頼です。これに対して不 忠実な僕の不忠実さは、自分に託されたものは流動させるべきものではなく、凍結 させるべきものと考えています。それは、主人にたいする基本的な信頼の欠如、根 源のない「恐れ」があったからです。 これは、この世界に生きながら主の時を待つキリスト者の状況を照らしています。 見えない主を仰ぎながら空白の時を生きているように見える毎日。しかし、この空 白の時、敵対するものに囲まれているように見えるときの生き方が大事だと主は教 えておられます。主はこの時を生き抜くに足る資産を残しておられます。更にそれ を凍結させるべきものではなく流動的なものと見抜いて、豊かに用いるならば何倍 にもなると。決め手は、見えない遠くにいると思われる主の思いを正しく聞き取っ て信頼するかどうかです。