12月3日
2000年12月3日

「神の訪れの時を弁える心」

ルカによる福音書19:28-44


 



 今年もアドヴェントがはじまりました。しかしここで聞く御言葉は、主イエスが

エルサレムに入場され、群衆がホサナ、ホサナと叫んで主を迎えたところ、すなわ

ち、受難週のはじめに聞く御言葉です。しかし、ルカによる福音書では、主イエス

の降誕物語の構図や言葉と重なり合うところがあります。子ろばに乗ってエルサレ

ムに入って行くとき、弟子たちや群衆が叫ぶ叫びは、あの夜羊かいたちに天使が現

れて歌った言葉と重なります。そしてその叫びは、あの夜もベツレヘムの野原で野

宿をしていた羊かいたちが聞いただけで、町の中では「客間には彼らのいる余地が

なかった」のでした。ここでも、「天には栄光があるように」との叫びは、ただち

に「やめさせて下さい」とのクレームでかき消されるのです。

 子ろばに乗ってエルサレムに入って行かれる主イエス。しかもそれは王としての

入場行進です。何と滑稽な王の更新であること。これを迎える弟子たちの集団、「

主の何よって来られる方、王に祝福あれ」との叫びや上着を道に敷くなどのパフォ

ーマンス、また何と牧歌的で貧相なこと。「自分たちが見たあらゆる奇跡のことで

声高らかに神を讃美した」と言っても、その熱狂は遠くに伝わりません。ただちに

その声は、もっと強力なこの世の支配者たちの声によってかき消されてしまいそう

です。日本の中でキリストを神と仰ぎ礼拝している教会と同じ構図・・・。

 主イエスはこのような世界の中を突き進んで行かれます。どのような表情をして

か、得意満面の凱旋をする王のようにか。そうではありません。「エルサレムに近

づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣かれた・・・『もしこの日にお

前も平和への道をわきまえていたら』・・・」。主の心を満たしている者は涙です。

神の訪れの時を知らないエルサレムの行く末を思う嘆きです。その前に、この群衆

を黙らせて欲しいとのファリサイ派の人々の願いに対して、「もしこの人たちが黙

れば石が叫ぶであろう」と語られたことも、同じ心でしょう。主はこのような嘆き

の中で、讃美の声をやめさせられません。貧しい讃美の声と共に、人々の罪を負う

ために、暗闇の力の支配する中に突き進んで行かれます。ご自身の死によって神の

義と聖と贖いとが現されるために。されば、わたしたちも、主と共に歩みつつ讃美

の声をやめることはできません。復活の喜びの調べに変えられる日まで。


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