12月17日
2000年12月17日

「家を建てるものの捨てた石が・・・]

ルカによる福音書20:9-19


 
 ぶどう円の主人と農夫たちの物語、主がエルサレムの神殿で語られたこのたとえ

話は、まことに、「そんなことがあってはなりません」と言わなければならない人

間関係の話しです。ぶどう園を造り農夫に貸して遠くに旅立つ主人。収穫の季節に

なって分け前を得るために僕を遣わすと、農夫たちはこれを次々に空手で帰らせる

のです。最初の僕は「袋叩きにして何も持たせないで追い返した」。二番目は、「

袋叩きにして侮辱して何ももたせないで追い返した」。三番目は、「傷を負わせて

追い返した」と次第にエスカレートし、ついに跡取り息子が来ると、「息子をぶど

う園のそとに放り出して殺してしまった」というのです。なんと見通しの悪い主人、

そして不誠実な農夫たち。現在の希望のない犯罪にも似て、非道そのものの人間関

係が描かれています。主イエスは、このような人間の生態を知っておられ、また強

い関心を持っておられます。

 律法学者たちや祭司長たちは、この話を自分たちに当てつけて語られたと考えて、

イエスに手をかけようとしたと記されています。確かに、この話の主人は天の父な

る神のこと、ぶどう畑はイスラエルのこと、悪い農夫は宗教的な指導者たち、遣わ

されてひどい目にあった僕たちは、予言者たち、そして、愛する相続息子はいうま

でもなく主イエスです。主イエスは、このような肥大化したエゴが固まり合って起

こったような出来事を、あえて神とイスラエルの指導者に宛てて語られたのはなぜ

か。不思議な話です。

 律法学者や祭司長たち、彼らがイスラエルの敬虔と信仰に基づく生活を指導する

ものへと上り詰めたのは、一体何の力によるものか、どのような信仰と生活による

のか、主イエスはこの隠され覆われたところに、この世の最悪の人間関係を当ては

めます。こうして彼らの心の中にある闇を光のもとに引き出し、その結果、彼らの

怒りと殺意をかき立てています。このたとえは、従って、宮清めの出来事と同じく、

主イエスが自分自身に十字架を引き寄せています。この十字架は、それによってそ

の石が落ち掛かると、粉々に砕けてしまうような石、何かがその上に落ちると砕け

るような、まことに危険な隅の石のようです。

 主イエスは、このように、わたしたちの覆われた心の中に突入してきます。この

ような形で罪の闇に向かって近づいてこられるのです。そして、その罪の結果をわ

たしたちに代わって負ってくださるのです。




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