ルカによる福音書20:20-26
主イエスのエルサレムの最後の一週間の息詰まるような対決の話が展開されていま す。そこで主はご自身の方から十字架を引き寄せるように、エルサレムの宗教指導者 たち、祭司長や律法学者たちの信仰と生き方とに挑発をしています。しかし、この皇 帝に税金を納めるべきかどうかについてのたくらみに満ちた質問にたいしては、主イ エスは彼らが望むようなところにご自分の命を与えるものではないことを明らかにし ています。 カイザルに税金を納めるべきかどうかは、まさに当時のイスラエルの国論を二分す るような大問題でした。カイザルの肖像が刻印された貨幣を用いて、異教徒たるロー マ皇帝に税金を納めることは、だれにとっても屈辱的なことでしたが、それを熱心党 の人々のように、ただちに納税を拒否して反ローマ闘争に立ち上がるか、それともサ ドカイ派のように現実を受け入れ、その中で平和を求めるか、この狭間で人々は熱く 論じ闘ったのです。この問いを主イエスに投げつけることは、そこで群衆と主イエス の間に亀裂を生じさせるか、それとも、ローマに引き渡す口実を得るか、いずれにし ても、計算され尽くした謀略によるものです。主はただちにこれを見抜いて、税に納 める貨幣を取り出させ、そこに記されている肖像をだれのものかと問い、そして、「 カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」と語られたのでした。 これは、ただ当意即妙の知恵をもって敵対者の意図をくじいただけの意義にとどま るものではありません。その本来の意図は、この世のもの(カイザルの支配)と神の ものとの間にあるきわめて混同しやすい区別を明確にすることと、そこで、神のもの は神に返すとはどういうことか、この大問題を根本から考えるよう提示することにあ ったと考えられます。カイザルは神であると主張します。従って、それに従うのも拒 否するのも、それは信仰告白の事態でした。しかし、そこにも、この世の問題として 考えるべきものと神のものを神のものとすべきものがあることが明らかにされたので す。主は、カイザルという現実的な支配を認めております。しかし、それは神のもの ではありません。では神のものを神に返す生き方とはどのような生き方なのか、それ は主イエスがその生と死に於いて証しておられることをよく見て学ぶことしかありま せん。そこにそのすべてが隠されています。