12月31日
2000年12月31日

「復活にあずかる希望」

ルカによる福音書20:27-40


 

 復活があることを否定していたサドカイ派の人々が主イエスを試すためにした質問

はまるで子どもをからかうような質問です。そもそもユダヤ人の解放独立運動は、長

い外国支配のことで、神の終末における救い主の出現と正しいものを復活させてくだ

さるという信仰によって激しく燃え上がり、おそれを知らない闘いへと民衆を駆り立

てました。サドカイ派の人々はこのような民衆の狂信を嫌悪し、より現実的なこの世

の権力、すなわちローマの支配との妥協をはかりましたから、復活の信仰は絶えず彼

らの間で論争と政治的な立場の見極めの道具でした。サドカイ派の人々の質問は、復

活があるかどうかについてではありません。空想的・狂信的な信仰が現実とぶつかり

合うときに生じる矛盾を、モーセの律法と重ね合わせ瑠ことによって明らかにすると

いう巧妙なものでした。田舎者のイエスをこのような仕掛けで困惑させ、それによっ

てその背後にいる民衆を愚弄するというたくらみでしょう。しかし、これによって生

と死を越える観念をもてあそぶサドカイ派の人々の浅薄さが暴露されます。

 主イエスが明らかにしておられることは、だれも確かなことが言えないこと、ただ

主のみ語ることができることです。「次の世に入って死者の中から復活するにふさわ

しいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちはもはや死ぬことが

ない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として神の子だからである。」この

謎のような言葉から、次のことが明らかになります。復活は、この世の生の連続性や

継続、繰り返しではなく、異なる様のものであること。死者の中から復活にあずかる

にふさわしいとされる人がいること、従って、復活はだれにも自動的にあるのではな

く、選択的に、それに価する者に与えられる事態であること。それは、もはや死から

解放され、天使のような神の子のようなあり方であること、即ち、神との関係でこの

世のあり方とが違う、新しい、近い、親しい関係に生きるあり方であること、です。

従って、復活は、死の現実を捨像してわたしたちを空想に走らせるものではありませ

ん。復活は、わたしたちg内在的にもっている能力などではなく、命の支配者である

神の創造的な働きによるものです。主イエス・キリストによって、わたしたちが復活

にあずかることができると約束されていることは、何と驚くべきことでしょう。



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