1月7日
2001年1月7日

「主を主として崇めること」

ルカによる福音書20:41-21:3


 

 エルサレムでの十字架の死を前にした主イエスの行動と言葉、三つの情景がここに

展開されています。

1.ダビデの子メシアと呼ばれることに対する修正の要求。「ダビデがメシアを主と

呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子か」

2.律法学者たちの見せかけの敬虔に対する警告、「律法学者に気をつけなさい。彼

らは長い衣をまとって歩き回りたがり、また広場で挨拶されること、会堂では上席、

宴会では上座に座ることを好む。・・彼らは人一倍厳しい裁きを受けることになる。」

3.神殿の賽銭箱に献金を投げ入れる一人のやもめの献金を見て、「この貧しいやも

めはだれよりもたくさん入れた。あの金持ちたちは有り余る中から献金したが、この

人は乏しい中から持っている生活費全部を入れたからである」。

 これらは脈絡なく並んでいるように見えますが、どれも生きた神と向かい合う人間

のあり方が問われています。ダビデの子メシアを期待する人々の期待、これは、「驚

くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」ダビデのような存在をメシアとして

待ち望むことは、正当な期待の持ち方です。しかし、そのような期待の枠の中で主イ

エスの働きが全部言い表されるものではないことを明らかにされるのです。それをは

るかに超える「主」の働きである、と。

 人の目に尊ばれることを好む律法学者、やもめを食いものにする宗教家、敬虔さと

それに対する報酬を計算するのは宗教が職業となっている者の特徴でしょう。人間的

な必要からでてきた信仰、社会の中での役割にこたえようとするだけの宗教はこの偽

善性を克服できません。神の言葉に震撼させられ、人の求めにではなく神の求めによ

って行動することなしには・・。

 貧しいやもめはあのレプタ二つを献げることによって何をささげたのでしょうか。

生活費の全部。それは主の者、自分のものとすべきものは何もないという信仰、自分

の存在の全てをささげています。主イエスはこれを見て慈しんで織られます。

 このようにして、生きた神に対する主イエスののありかたが人間的な常識を赦さな

いきわめて厳しいものであると同時に、またきわめて簡単なものであるのに気づかさ

れます。こうして、神が求めて祈られる真実を明らかにすると共に、主がわたしたち

のために取りなし、与えてくださる命の性質も明らかにされます。


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