ルカによる福音書22:1-13
ルカによる福音書を通して、「この人を見よ」「この名による以外救いはない」と いう著者の激しい促しを聞きながら主イエスの生涯と言葉を学んできました。これか らその最期の場面、救いの泉の源泉に最も近いところにさしかかります。まず、そこ で、「過越の祭り」というユダヤの準備をするために二つの動きがあったことを伝え ています。一つは、主イエスがペテロとヨハネを遣わしてエルサレムの二階の広間を 過越の食事のために用意をさせるという情景、そしてもう一つは、12弟子の一人イ スカリオテのユダが祭司長たちや神殿守衛長たちのもとに行き、どのようにしてイエ スを引き渡そうかと相談する情景です。それぞれの情景が、主イエスの死の意義を方 向づける重要な意味を持ってくることになります。 イスカリオテのユダの裏切りについて、ルカは「ユダの中にサタンが入った」と表 現しています。人類の歴史において最も決定的な罪を犯した代表者、始祖アダムとイ ヴ、そしてイスカリオテのユダ・・・。アダムとイヴは、神のように賢くなろうとし て、食べたら必ず死ぬといわれた善悪を知る木の実を食べました。これによって自分 が裸であることを知るようになり楽園から追放され、全人類がその罪を引き継ぐもの となりました。ユダは罪なき神の子を呪いの木にかけさせました。それぞれの罪は全 人類がそれによって決定的な影響を受けることになります。そのような大きな罪に、 それぞれサタンが介入しています。そうとしか言いようのない深さと広がりを持って いることを語ろうとしているのでしょう。 それほどの罪を犯すことができたのは何故か、その動機について福音書はほとんど なにも教えてくれません。イエスの教えと働きを最も近いところで見て味わった12 弟子の一人ユダ、その権威と愛の深さと父なる神との近さを身をもって経験したユダ が何故に悪霊さえも屈服させるイエスを引き渡すことができたのか、少なくとも、ユ ダはこのような主イエスを知っていた故に、自分の知恵と働きによって自由に操りた いと願い、そのように行動したということでしょう。自分の手でこの人を操りたいと 考える自らの力の偶像化を読み取ることはできます。アダムとイヴの罪と同じです。 これが主イエスを十字架に引き渡して行く最初のステップです。そして主は、その罪 を引き受けてご自身を委ねられるのです。過越の子羊として・・・。