ルカによる福音書22:24-34
主エス・キリストが十字架につけられる前夜、ルカは最期の晩餐の後、だれが一 番偉いかをめぐっての弟子たちの争いと、今日の鶏が鳴くまでに三度わたしを知らな いというだろうとのペテロへの警告があったことを伝えています。主イエスの最も近 くにいた弟子たち、その心のありかたを最もよく知っていたはずの弟子たちのこの有 様。人間のこのような姿を見るとき、その品性の貧しさに密かな軽蔑を覚えます。そ の心の動きは、実は自分にも同じ思いがあることを暴露しています。自分を他者より も優れたもの、第一のものと見なす傾向、これは主イエスの弟子たちさえも無関係で はなかったのです。いや、むしろ、主イエスという優れた人格と権威にふれたからこ そ、独特の自負と競争が生じたとも言えます。この集団で一番偉いのは、暴力や金銭 を自由にする力などではなく、真に精神的なもの霊的なものであるはずですから、そ れに目覚めたことによって争いが生じ、強いものと弱いものの葛藤が生じます。これ が十字架前夜の人間の状況です。 主イエスは、「あなた方の間ではそうであってはならない」と語られます。あなた がたは仕えるもの、給仕するものであるようにと。主はわたしたちをご自身の食卓に 招かれることをとおして、そこで招いてくださっている方がどのような方であり、そ こで味わうものがだれからのものであるかを確認することを通して「仕える」ことに 何であるかを教えられます。 シモン・ペテロは主イエスを真司、主に従うことにおいて、だれも彼の右にでるも のはいません。「主よ、ご一緒なら牢に入って死んでも良いと覚悟しています。」と 語ることが出来る人です。ここにサタンが働く場所があることを主は警告しています。 これほどの覚悟をゆるがすのは誰か。主ご自身です。主の十字架の事態です。ペテロ はこの試練によって信仰が自分からでるものなのか、上からのものなのか下からのも のなのかが試されるのです。ただ主が自分のために祈ってくださるということだけが 通用すること、シモンそこに向かって行くよう試みられています。「ペテロは自分の 堕落にもかかわらずこの岩(ペテロ)になるのではなく、その堕落を通してこの岩( ペテロ)になるのであり、自分の力が自分からでるのではなく信仰のうちに保ってく ださるイエスの働きにあることを明白に認識することを通してこの岩(ペテロ)にな るのである」(A.シュラッター)