3月18日
2001年3月18日

「神の子の裁判」

ルカによる福音書22:53-71


 
 主イエス・キリストが捕らえられ、裁かれ、十字架にかけられるまでの出来事は、

克明にたどってみると福音書によってかなりの異同があります。ルカでは、最高法院

での朝の裁判、ピラトの裁判、ヘロデのもとでの裁判、ピラトのもとでの最終判決の

順になっています。その最初は、「民の長老会」「最高法院」と二つの名前で呼ばれ

る祭司長や律法学者など71人からなるユダヤの議会での裁判です。

 ここでの裁判の様子は、ほとんど裁判と言われるようなものではなく、ただ大祭司

が「お前はキリストか」「お前は神の子か」と問い、これに対して主イエスが、「わ

たしが言ってもあなた方は信じないだろう。わたしが尋ねても決して答えないだろう。

しかし、今から後、人の子は全能の神の右に座る。」と答えられただけで、ほとんど

かみ合った対話になっていません。議会の務めは、なによりもイスラエルの宗教を正

しく守り、神殿の権威や制度を脅かすものを排除することでした。彼らは何を守った

のでしょう。ほとんど何の証言も確認もないまま、議会は、一方的に死にあたるもの

と断定して、ピラトのもとに送るのです。明らかなことは、彼らは神の意志と権威で

はなく、自分たちの集団の権威と利益を脅かすものを恐れて、これを排除したと言う

ことです。そして、皮肉なことに、彼らは「キリスト」である故に、また「神の子」

である故に、主イエスを死に渡したということです。ルカは、このようなことを強調

して、民の長老会、最高法院での裁判の次第を伝えています。

 これが、わたしたちの主イエス・キリストの最後の裁判の情景です。主イエスの命

は、わたしたちのために渡された命、わたしたちのために神が送ってくださった命で

す。「暗闇と死の影に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く」(

ルカ1:79)方、「民全体に与えられる大きな喜び」です。この生涯の終極は、こ

のような人間の状況のもとで死に引き渡されたことを明らかにしています。強欲と自

己保身、他者の命への無関心、主イエスはその死において、このような人間の罪をご

自身に引き受けておられます。わたしたちのための命は、暗闇の向こうで輝く光では

なく、わたしたちの内にあるこの暗闇のなかで、この暗闇を引き受けて、そこのとこ

ろに光をもたらしています。


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