19980104
1998年1月4日

「キリストは神の右の座に着き」

マルコによる福音書14章61−65


 主イエスは十字架につけられたとき、最終的に死刑の判決が下されたのは、主イ

エスが「あなたたちは人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見

る」と答えられたからです。主イエスが復活をして天に上げられ、神の右の座に着

かれたという表現は新約聖書の至る所で出会います。使徒信条でも、「三日目によ

みがえり、天に昇り、全能の神の右に座したもう」と告白しています。「神の右の

座に着く」とはどのようなことなのでしょうか。このような主イエスを知ることは、

ステパノの殉教の死のところでもわかるように、今生きておられる主イエス・キリ

ストとの生きた交わりから生まれる信仰そのものです。わたしたちは、どのように

心を込めてこれを告白することができるでしょう。

 明らかに、これは使徒たちの目撃証言ではありません。主イエスの十字架の死と

復活は目撃証言と言えます。歴史的な出来事です。しかし、復活した後、天に昇り

全能の神の右の座に着いたかどうか、これはだれも見たわけではありません。にも

かかわらず使徒たちは確固たる知識として話すのはなぜか、その謎を解くカギは、

主イエスの十字架と復活を経験した使徒たちと詩編110篇1節との出会いにある

と考えることができます。新約聖書の中でこの詩編がしばしば引用され、これをイ

エスの死と復活の意味を解く手がかりにしているのです。

 キリストが神の右の座についておられるという表現によって何をあらわしている

のでしょう。神の右手は力と祝福の源です。従って、「わたしの右の座に着き、あ

なたの的を足台にする」というところから、ただちにイエス・キリストは「すべて

の支配、権威、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられる

あらゆる名の上に置かれました」(エフェソ1.20)と結びつけています。イエ

スを神の右にいます方と認識するところから、イエスを主と呼ぶことへと発展して

いるのです。

 主イエスが神の右の座に着いていることを知ることは、わたしたちにはどのよう

な益をもたらすでしょうか。これについてパウロは、わたしたちの罪をとりなして

くださるので、だれも恐れる必要がない、だれもキリスト・イエスにおける神の愛

から引き離すことはできない、と言っています。(ロ−マ8.34)。死を宣告さ

れるべき罪人であるわたしたちのために、命を捨てて取りなしてくださる方を神の

右にもっているので、恐れる必要はないというのです。またコロサイの手紙では「

上にあるものを求めなさい」というすすめに結びついています。神の右にいますキ

リストを知ることがわたしたちの生活を清くし、ただすのです。

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