4月1日
2001年4月1日

「人々はイエスを十字架にかけた」

ルカによる福音書23:13-25


 
 主イエスの十字架に至る情景をルカによる福音書によってたどってみると、主が担

われた全人類に通底する罪が、個々の登場人物の罪において独特の形で表されている

ように思われます。ピラト、群衆、そしてバラバがこちら側に、沈黙する主イエスが

あちら側にいます。主イエスの十字架は、空想的な救済物語ではなく、現実の歴史で

す。その出来事を思い起こし、主イエスの名を呼ぶものは救われるのです。

 ピラト、このローマの総督、政治家にして裁判官は神話的な人物ではありません。

現実的に人間の社会の秩序を守り維持していくのに必要な常識の持ち主です。主イエ

スが連行されたとき、ただちに、「この男は死刑に至るようなことは何もしていない」

と見抜き、そのことを三度も主張しています。正義や公正は多数者の声によって決ま

るものではなく、事実に即さなければならないことを知っており、イエスを釈放する

ために最大限の努力をしているように見えます。が、結局群衆の声に負けてしまいま

す。ピラトはイエスの死に責任がないといえるでしょうか。否、責任の放棄というか

たちの罪によってイエスを十字架に追いやっています。主イエスは自分の罪を負って

ではなく、ピラトのこの罪を負って十字架に就いています。

 カルヴァンはピラトについて興味深い観察をしています。イエスは無実を確信しつ

つ、死刑にすることを避けるために、鞭打ちの刑で免除しようと群衆に呼びかけてい

ることについて、聖霊が確固たる道に導くことのない人間の不確かな行為だと見えま

す。公平や正義に仕えたいとの願いはあるが、大きな声に押されてそれを全うするこ

とはできないとき、大きな悪を小さな穏やかな不正義に代えることによって、自らの

うちに満足を見いだそうとする生き方、それによって、自分の決断は最悪のものでは

なかったと自己満足する在り方です。「世界は今日に至るまでこの種のピラトに満ち

ているのではないか?」とカルヴァンは問いかけます。大罪を小罪に置き換えること

をもって無罪と言い逃れる罪です。主イエスに十字架刑を宣告したポンテオ・ピラト

は、勝利者としてではなく、実に、敗北者として主に死刑を宣告しています。

 不思議なことに主イエスは沈黙しています。人々の中にある罪を指摘することなく、

ご自身を無罪のものと主張することなく沈黙しておられます。神の人間に対する裁き

に自分自身を引き渡しておられるのです。


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