ルカによる福音書23:26-49
主イエスの十字架の情景を福音書は伝えていますが、注目すべきことに、十字架の 想像を絶する肉体的な痛みを、主がどのように耐え忍ばれたかについては何も語って いません。ただ、犯罪人と一緒に十字架につけられたこと、裸にされ自分の上着は人 々がくじ引きで取り合ったこと、民衆の視線、議員たちの嘲り、「他人を救ったのだ。 もし神からのメシアで選ばれたものなら、自分を救うがよい。」兵士たちの侮辱。主 イエスが生涯を通して人々に与えてきたものに対して、あまりにも対照的な仕打ち、 自分らしさが全くはぎ取られ、踏みにじられる情景。このような主イエスの人間性に 対する陵辱が語られています。その中で主イエスの祈り、「父よ彼らをお赦しくださ い。自分が何をしているのか知らないのです」があります。 主イエスは、この苦しみ、痛みを、人々に対して訴えていません。この十字架を人 々に向かって負っているのでもありません。父に対して、父から受けたものとして担 い、自分の死を父にささげるものとして引き受けているのです。そのことによって、 彼らの罪が赦されることを願っています。人は他者のために死ぬことなどできない。 自分の死を死んでいくことができるだけ、という非情な現実は、このイエスの死、こ の十字架の祈りによってはじきとばされています。自分の罪ではなく他者の罪を引き 受けることによって、十字架にはりつけられ、最も恐ろしい痛みと辱めと虚しさのな かで死を経験することにおいて、その死を天の父からのものとして受け、罪を負わせ たものの赦しを乞い求めているのです。パウロはこれを「信仰をもってうべき贖いの 供えもの」と理解したのは、この祈りに根ざしています。 主イエスの十字架を見ている人々は、主イエスに向かって「自分を救え」と嘲りの 大合唱で、このイエスの無様な死を自分たちの中から払いのけようとしています。し かし、別の見方をする人もいます。一緒の十字架につけられた犯罪人の一人です。自 分と一緒に痛みを経験し、一緒に死んでいくこのイエスのなかに、全く自分とは違う ものを見、自分の苦しみと死において、このイエスに自分のことを覚えていただくこ と、ここに自分の究極の望みと救いを見出しているのです。「イエスよ、御国におい でになるときに、わたしのことをおぼえていてください。」キリスト者はこの二つの 祈りの中で生きています。