4月15日
2001年4月15日

「復活の朝の光の中で」

ルカによる福音書23:50-24:12


 
 「十字架につけられ、三日目によみがえられた主イエス・キリスト」を教会は最も

重要なこととして伝えます。主の葬りと復活に至る過程をたどると、興味深いことに

気づきます。主の死は考えうる限り最も無惨な恐ろしい人間の死ですが、葬りは丁重

で、人間的な、主の生涯にふさわしいものになっています。何かが全く変わっていま

す。主を死に追いやった者は敗北したかのように恐れ、深く沈黙し、別の力が働きは

じめています。

 アリマタヤのヨセフという人が「大胆にも」イエスの遺体を引き取りたいとピラト

に申し出、遺体を十字架から降ろして、自分のために用意していた新しい墓に亜麻布

にくるんで納めたと記されています。ヨセフは議員であり、善良で正しい人、同僚の

決議や行動に賛成していなかった人、神の国を待ち望んでいた人でした。しかし、そ

の善良さや内心の抵抗は主を命につなぎとめるために何の力もありませんでした。し

かし、主の死を目の当たりにして、たとえ人々の嘲りや政治生命の終わりを告げられ

るようなことになっても、主イエスの遺体を引き取ることを決意して、それを実行に

移したのです。「他人は救ったが、自分を救えない。自分を救え」という十字架のイ

エスに対する嘲りと、その中での「彼らをお赦しください」と父に祈る主イエスの祈

り、この主イエスの死がヨセフを変えています。そして、イエスの死を自分に引き受

け、自分の死に場所をイエスに明け渡して生きていこうと決断しているのです。主イ

エスの死が弱くかたくななヨセフの心を変えて責任ある大胆な神の国の実現を求める

人にしています。このヨセフが決断し、主イエスのために明け渡した場所が主の復活

の場所です。

 ところが、さらに興味深いことに、主イエスの復活の最初の証人としての名誉は、

このように主の死の深い意味を悟り、大胆に新しい人として歩み始めたヨセフに与え

られたのではありません。もっと小さなたち、遠くから葬りを見ていたガリラヤから

きた女性たち、逃げ出したペテロや弟子たちです。しかも復活の知らせはわき上がる

歓喜の叫びをもって迎えられたのではなく、「たわごと」として聞かれたという赤裸

々な事実を伝えています。しかし、この人々が復活の証人とされるのです。生きた主

が出会ってくださらなければ、起こりえないことです。私たちの復活し生きた主との

出会いは、このようです。そうでなければ・・・


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