4月22日
2001年4月22日

「燃える心で」

ルカによる福音書24:13-35


 
 復活した主がエマオに向かう弟子たちと共に歩いて、彼らの目を開き、心を燃やさ

れた話は主の復活物語の中でもわたしたちにも身近な希望を与えます。

 とても不思議なことに、彼らは主イエスと一緒に2〜3時間も歩いて、しかも主イ

エスのことを話題にしながら、それがいえすだとは気づかなかった、と記されていま

す。「二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった」と。そんなことがあ

るはずがない、といってそれ以上真面目に考えようとしないという反応、おそらくこ

れと同じことが二人の心にも起こったのでしょう。現実に起こっていることをありの

ままに見るためには、常識の枠を打ち破らなければなりません。彼らは、主の十字架

の死についてだけでなく、すでに主の復活についての情報を得ています。にもかかわ

らず彼らの目が遮られていたのは何故か。彼らにとっては、主イエスは過去の人、も

う既に終わってしまった希望の人で、今生きて会うことのできる人ではなくなってい

るからでしょう。死人が復活するなどということは「たわごと」でした。その心の鎧

が、主イエスが最も近くを歩いてくださっているときにも、目を遮ります。主の復活

の証言をした人たちは、特別な信仰によって主の十字架の意味を悟り、ただちに復活

を確信し期待したのではありません。特別な霊性をもって復活の主と交流したという

のでもない。まことに平凡な人々の日常感覚が赤裸々に描かれています。このような

人々がなぜ復活の証人になって、全世界に福音を伝えることになったのか、その鍵は、

主イエスご自身がそれぞれにご自身の生きている姿を現された、それ以外に考えるこ

とはできません。そしてそれが今に至るまで続いているのです。

 彼らは主とともに食事をしているとき主であることに気づき、主の姿は見えなくな

りますが、そのとき、「お互いの心が燃えていたではないか」と印象深く語っていま

す。「燃える心」を復活の主はわたしたちに与えてくださる。確かにそうです。よく

読むと、燃える心は、復活の主に気づき、主が生きていることが分かったからではな

く、道々聖書全体を説明し、主の苦難の意義が語られたとき、心が燃えた、というの

です。み言葉によって神の救いの計画が主イエスによって実現されたことを話される

とき、心が燃えたのです。復活の奇跡に驚くからではなく、み言葉のうちにいます主

を見出すとき、心が燃えるのです。


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