4月29日
2001年4月29日

「心の目を開いて」

ルカによる福音書24:36-53


 
 ルカによる福音書は、わたしたちは復活した主イエスにどのように出会うのか、と

いうことに関心を注いでいるように見えます。これは、わたしたちにとっても大きな

関心事です。生きた主との出会いと交わり、わたしたちの信仰はまさにここにかかっ

ています。

 ルカの伝える主の復活の記事は、主の弟子たちが復活の主と出会いにははさまざま

なレベルがあることを伝えています。「彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと

思った」。これは主が11人と他の弟子たちに会ったときの最初の反応です。もう既

に主の復活の知らせを知っている人たち、最も深く主イエスを理解していなければな

らないはずの使徒たちの反応がこれです。復活の主に出会って心が燃えたのではなく、

恐怖で肝を冷やしたのです。主を過去の者とし、現実の生きた方として受け入れるた

めには、自分の過去と常識が邪魔をします。しかし、主がこの状態のままで使徒たち

を放置されません。ご自身の手と足を見せて、「わたしだ、わたしだ。よく見なさい」

といわれるのです。復活の主に出会うためには理性の目を閉ざしてはなりません。目

を開いて、釘跡のある手と足を見るのです。確かに、主の体である教会のなかに、主

の肢体であるキリスト者の生きている中に、主の手と足を見ることができます。目を

開いてみるならば。

 また、主の弟子たちは目の前にいる復活された主を見て、「喜びのあまりまだ信じ

られなかった」というレベルの受け入れ方があったことを記しています。半信半疑と

いうよりはもう少し積極的で、喜びがあります。しかし全身の喜びではなく、生き方

を変えるような出会いではありません。復活という事実を主ご自身がその姿を示され

ても、まだ名にも起こっていないに等しいのです。このレベルを突破するために、主

は魚の一切れを彼らの目の前で食べること、即ち、主が彼らと共にある存在であるこ

とを実証することと、エマオ途上でされたのと同じように、律法と預言者の書と詩篇

に書かれていることを解説して、主の十字架の死と復活がみ言葉の成就であることを

明らかにされること、これによって、彼らの心の目を開いているのです。神の計画と、

主の十字架と復活の事実を、復活の主ご自身が解き明かし、結びつけておられるので

す。このような経過をたどって、大いなる喜びをもって聖霊を待ち望み、復活の証人

として全世界に遣わされていく備えが進められています。主の主導のもとに。


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