ルカによる福音書24:36-53
ルカによる福音書は、わたしたちは復活した主イエスにどのように出会うのか、と いうことに関心を注いでいるように見えます。これは、わたしたちにとっても大きな 関心事です。生きた主との出会いと交わり、わたしたちの信仰はまさにここにかかっ ています。 ルカの伝える主の復活の記事は、主の弟子たちが復活の主と出会いにははさまざま なレベルがあることを伝えています。「彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと 思った」。これは主が11人と他の弟子たちに会ったときの最初の反応です。もう既 に主の復活の知らせを知っている人たち、最も深く主イエスを理解していなければな らないはずの使徒たちの反応がこれです。復活の主に出会って心が燃えたのではなく、 恐怖で肝を冷やしたのです。主を過去の者とし、現実の生きた方として受け入れるた めには、自分の過去と常識が邪魔をします。しかし、主がこの状態のままで使徒たち を放置されません。ご自身の手と足を見せて、「わたしだ、わたしだ。よく見なさい」 といわれるのです。復活の主に出会うためには理性の目を閉ざしてはなりません。目 を開いて、釘跡のある手と足を見るのです。確かに、主の体である教会のなかに、主 の肢体であるキリスト者の生きている中に、主の手と足を見ることができます。目を 開いてみるならば。 また、主の弟子たちは目の前にいる復活された主を見て、「喜びのあまりまだ信じ られなかった」というレベルの受け入れ方があったことを記しています。半信半疑と いうよりはもう少し積極的で、喜びがあります。しかし全身の喜びではなく、生き方 を変えるような出会いではありません。復活という事実を主ご自身がその姿を示され ても、まだ名にも起こっていないに等しいのです。このレベルを突破するために、主 は魚の一切れを彼らの目の前で食べること、即ち、主が彼らと共にある存在であるこ とを実証することと、エマオ途上でされたのと同じように、律法と預言者の書と詩篇 に書かれていることを解説して、主の十字架の死と復活がみ言葉の成就であることを 明らかにされること、これによって、彼らの心の目を開いているのです。神の計画と、 主の十字架と復活の事実を、復活の主ご自身が解き明かし、結びつけておられるので す。このような経過をたどって、大いなる喜びをもって聖霊を待ち望み、復活の証人 として全世界に遣わされていく備えが進められています。主の主導のもとに。