1月5日
1997年1月5日

「混沌から光へ」

創世記1章1−5


 「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神

の霊が水の面(おもて)を動いていた。」

 有名なこの創世記の冒頭の言葉は、きわめて張りつめた緊張をはらんでいます。

一切の装飾や解説的なものを排除して、一言一言、これ以外の言葉はないというほ

ど、緊急の必要に合うことだけが語られているのです。これは、バビロンに捕囚民

として連れ去られたイスラエルの共同体の礼拝に用いられた信仰告白だと考えられ

ています。バビロンの巨大な戦力、経済力、文化に圧倒されて、全く自信を失った

共同体、イスラエルの神はどこにいるのかとあざけられる日々、この中で語られる

信仰告白です。このようなときに人間は根源的な問いを持つことができますし、そ

こで与えられる答えは、時を超えて生きる力を与える言葉になります。

 祭司典の記者は、未曾有の苦難に直面して、人間とは何か、世界はどうなってい

るのかと問うとき、その根源の答えを全く思わぬ方向から導き出しているのです。

 「初めに、神は天地を創造された・・・」、そして第一日、第二日と定期的に神

の創造の業ははっきりとした秩序をもって進められ、人間が造られ、安息の日にお

いて創造の業は完成されます。一日毎に光や大地や生き物を創造へと呼び出し、夕

があり朝があって次の日にすすみます。はじめに自分があって、人間があり、自分

の良しと思うところによって日が暮れ、太陽が昇るのでなく、神が良しとされるこ

とによって、光があり空があり大地があるのです。わたしたちも、この根源から世

界と自分とを見ることに方向転換することができさえしたら、どれほど深い平安と

、また、創造的な力をもって生きることができるでしょう。それは、野の百合、空

の鳥を教師として、思い煩うことから解放されよ、「あなた方の天の父は、あなた

方に必要なものは、ことごとくごぞんじである」と教える主イエスの教えの精神で

もあります。

 「光あれ」と神はいわれた。すると光があった。創造のはじめに神が呼び出され

たのは光です。光によって闇が分けられ、光をはじめとして、それからすべてのも

のが造られていきます。混沌と闇は光によってなくなってしまうのではありません。

しかし、闇に限界が設けられ、永遠に続く闇が世界を覆うのではなく、朝を待つ夜

があるだけとなります。そして第二日がはじまるのです。
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