使徒言行録1:15-26
ペンテコステを前にして、主の弟子たちはエルサレムの二階のある家に集まって心 を合わせて熱心に祈っています。聖霊を受ける備えをしている教会は、どのような祈 りと備えをしているのでしょう。 ペテロが述べていることは、「イエスを捕らえた者たちの手引きをしたユダ」のこ とです。主の復活の証人、聖霊を受けて地の果てまで福音を伝えることになるこの共 同体は、過去を引きずっています。簡単には清算できない過去、主イエスを裏切り、 十字架の死をもたらすことになった決定的な鍵を握る人間は自分たちの仲間、主イエ スと共にガリラヤの町々をめぐり、共にエルサレムに来た者、そして仲間は自ら悲惨 な死を選んでいます。拭いきれない汚点、しかも、誰もこの仲間と自分との決定的な 違いを見出すことのできない後ろめたさをもっています。どれほどの主の十字架の死 と復活の光が明るく輝いても、この破れによって自他共に崩れ去っていく闇。兄弟た ちの熱心な祈りは、聖霊を待ち望む願いだけでなく、このような過去の現実にも向か ったに違いありません。祈りは現実を逃避して妄想の世界に生きることではありませ ん。できれば忘れてしまいたい地獄の業火にも上からの光を当て、清冽な命の水を注 いでいただいて、新しく生きることです。 この聖霊を持つ集団は過去を二つの方向で整理しているようです。ユダについては 聖霊が語っているとおりのことが実現しなければならなかったと受け止めること、ユ ダに委ねられていた使徒の重要な務めは誰かが代わって負わなければならないという ことです。この二つのことはどのような内的必然性をもっているかを考えると、ここ に主イエスの十字架と復活のメッセージを真剣に聞き取っている人々の心の動きがあ ることに気づかされます。ユダに対しては、一見無責任に裏切り者を突き放している ように見えますが、むしろ個人的な怒りや憎しみの増幅をやめて、その出来事の一切 を神の必然と見、そして自分たちが復活の主に出会わされたのは、神の憐れみ以外の ものではないと確認しているということでしょう。そこから、自分たちが使徒とされ たのは何故かと考えるとき、ユダに割り当てられていた務めの重要さに思い至ったと いうことです。パウロが罪過の責任を負わせることなくかえって和解の福音を委ねら れたと語っている強く迫るキリストの愛を、この使徒たちも感じて行動しているので す。