使徒言行録2:1-13
ペンテコステは、「七週祭」という小麦の刈り入れを祝い、また律法が授与された ことを祝うユダヤの祭儀の日ですが、この日にエルサレムで熱心に祈っていた主イエ スの弟子たちに聖霊が降りました。この日を教会の出発の日として世界の教会が記念 しています。聖霊は天地の造られる前から命の与え主として生きておられますから、 ペンテコステの日に限ってそれがイエスの弟子たちだけに与えられたというわけでは ありません。しかし、聖霊は父なる神と御子イエス・キリストの現実を、時間の中で、 限られた場所で生きるものに現してくださる神ですから、この日に歴史的・現実的に けすことのできない出来事として聖霊が与えられたことが記念されるのは当然です。 聖霊が授けられるということがどういうことであるのか、使徒言行録には、「突然 激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そ して、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上に留まった」と記されてい ます。このような音と光によって現れ、また一人一人それぞれに与えられた他国の言 葉で語りはじめたという結果を記しています。主イエスがバプテスマのヨハネから洗 礼を受けたとき、「聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降りてきた」と記 され、、最も貧しい人々のはんさいのささげものである鳩の姿で示されています。そ れ以後の主イエスの働きは、まさにそのようなささげものの生涯でした。主の十字架 と復活に出会った弟子たちに降った聖霊が激しい風、炎のような舌であったというこ とは、それ以後の弟子たちの聖霊に導かれる歩みを予知します。それは、まさに燃え る舌、言葉を語るものとしての歩みでした。居眠りと退屈を呼び起こす言葉ではなく、 混沌の上に激しく吹きすさび、命をもたらし、死んでいるものを生き返らせる炎のよ うな言葉、しかも、語るものにとっても未知の聞いたこともないような言葉でした。 その言葉は、神の大いなるみ業、イエス・キリストによって現された神の救いを伝え る言葉ですが、聖霊を与えられた人自身が聞く言葉ではなく、自分にとって全く見も 知らない人々が、自分の生まれ故郷の言葉で聞くことができるような言葉を与えられ たというのです。 ペンテコステはこのような出来事です。教会はこの日を何故に記念するのでしょう。 実際にはあり得ないような過去の出来事を記憶し、あこがれを強く持つためではあり ません。わたしたちの中で働いている聖霊の生きた姿をこの出来事によって確認する ためです。ここに聖霊の実があることを確認し、この出発点から新しく出発するため です。