使徒言行録3:1-10
聖霊によって燃え立つ初代のキリスト者の群と、そのような一時的な興奮によって は到底燃え上がることも立ち上がることもできない現実との出会いの物語、互いを疲 れさせる出会いではなく、いやしをもたらす出会いがここにあります。 ペテロとヨハネが午後三時の祈りの時に神殿に昇ろうとしているとき、「美しの門」 のところで生まれながら足の不自由な男が抱えられてやってきて、いつものように神 殿を行き交う人々に施しを求める仕事をはじめ、そこで出会いが起こります。この人 はなぜ神殿の入り口に自分の施しを求める仕事場を持っていたのでしょう。なぜ普通 の道端ではなく、神殿の入り口であったのかを考えると、そこには自分に故なく不自 由さを与えた神に対する抗議と、そのような神の呪いに対して無関心で他社のことと している民衆に向かっての抗議と、また、それを逆手にとって、神に祈る善男善女に 自分の姿をさらして、彼らの敬虔さがどれほど本物であるかを試すような、したたか な戦略があったかもしれません。この人はおそらく豊かな乞食だったでしょう。金銭 の上では・・・。 この種の日常性を持つ人と使徒たちが出会ったとき、彼は使徒を見て施しを乞い、使 徒たちは彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」といい、彼が何かもらえると思 って二人を見つめる、このように「見る」ことの応酬が起こっています。興味深いこ とにこの四つの「見る」は原文では全部違う言葉になっています。焦点はペテロとヨ ハネの「じっと見る」です。聖霊を注がれたものは、これまで見慣れた人とその人の 言葉を、それまでとは違って目でじっと見始めるようになっている。人が十字架にか けて殺したイエスを神が復活させたという事実から行き始めた人たちの視野の広がり を伝えています。 ペテロが語りかけた言葉は有名です。「わたしには金や銀はないが、持っているも のをあげよう。ナザレの人イエスの名によって立ち上がり歩きなさい」です。この言 葉によってわたしたちが知ることができるのは、自分の持っているものを与えたいと いうペテロの強い願いです。また、自分の持っていないものと持っているものについ てのはっきりとした認識です。この自分が持っているもの、「イエスの名」が何であ るかについての深い確かな認識、これが出会いへと促し、それがいやしをもたらす出 会いを起こしています。この願いとこの認識が固い殻を突き破って、到底立ち上がり ようもない現実を変えています。