使徒言行録4:1-22
生まれながら足が不自由で神殿の入り口で人々に施しを求めていた男が、主イエス ・キリストの名によって歩き始めたというところから、ついにペトロとヨハネがユダ ヤの最高法院で尋問されるという事態に発展します。使徒言行録を読む楽しみの一つ は、宣教のこのような急速な展開、その動きの意外さにありますが、さらにこの危機 と思える事態の中で使徒たちの大胆な働き、聖霊によって動かされている人々は実に 人間的な生き生きとした動きをすること、何よりもこれによってわたしたちも励まさ れます。 ペトロやヨハネの大胆さはどうでしょう。その変貌ぶりは・・・。つい数ヶ月前、 主が同じ場所で裁判を受けたとき、逃げ出したばかりか、三度も主を知らないと言っ たペトロが、最高権力者たちの前に立って、「この人が良くなってみなさんの前に立 っているのは、あなた方が十字架にかけて殺したが、神が死者の中から復活させられ たナザレの人イエス・キリストによるものです」と証言し、どんな圧力にも屈しない でいるのです。人々は二つの奇跡を目の当たりにしています。歩けるようになった男 と使徒たち。無学なただの人の大胆な証言、この奇跡にものも言えなくなっているの です。そして、この二つの奇跡は同じ源からでています。主イエス・キリストの名、 これです。この名を運ぶ聖霊の風が心を吹き抜けるとき、新しい命に生きる人々の姿、 働きが現れてきます。この聖霊の風は今も生きた主イエスの名をわたしたちの心に刻 みます。 ペトロの証言を注意深く聞いていると、ここで主イエスの名が独特の働きをし始め ているのに気づきます。すなわち、ここで主の名は別の名と向き合っているというこ とです。主イエスを十字架に引き渡した権威ある名、大祭司アンナス、カイアファ、 ヨハネ、アレキサンドロス・・・当時の宗教的・政治的な権力を操って人々の生命を 支配する権威をもった名は、イエスの名にたして無力になっています。神が死者の中 から復活させられたイエスの名はこの世の権威ある名を恐れることなく、権威をもっ て語られ始めているのです。それと、このイエスの名は「家を建てるものの捨てた石 が隅の親石となった」という詩篇の言葉と結びつけられています。人々に捨てられた が神に生かされたイエスの生涯と深く重なります。この詩篇によって主イエスの名が 神の必然・摂理・憐れみと結びつけられています。ペトロらの大胆さは、自分の打ち にみなぎる力や権力への意志からではありません。捨てられたものを立たせられる主 の憐れみに動かされるところから出てくる力です。