8月12日
2001年8月12日

「自分のものは誰のものか?」

使徒言行録4:32-5:11



 初代教会のキリスト者たちの信仰生活が描かれているところで、誰一人として自分

の持ち物を自分のものだと主張するものはなく共有にしていたこと、財産をもってい

るものはそれを売って、必要に応じて分配していたので、貧しいものが一人もいなか

ったと記されているところはきわめて興味深いところです。いかに所有するかをめぐ

って厳しい競争のなかにある現代人として、この教会の中にあるのどかな不思議な世

界は衝撃的です。これは現代だけでなく、人間の歴史を通じてこのような聖書の記述

に促され、共有社会の理想を実現しようとしたさまざまな試みがあります。中世ヨー

ロッパの修道院制度、アシジのフランシスコによる小さな兄弟たちの群れのこともよ

く知られています。水、空気、土地などを独占して生きる環境を狭めている近代社会、

ものにとらわれる生活の貧しさは誰でも気づいています。しかs、自分の持ち物をす

べて他者のために投げ出して共有社会をつくり出すほどの心映えと勇気もないのが多

くの人の現状でしょう。何が彼らをこのような大胆さへと導き出したのでしょう。

 それを解くカギは、ここに記されている三つのことの組み合わせによく注意するこ

とです。すなわち、心と思いを一つにしたこと、すべて持ち物を共有にしたこと、イ

エスの復活について大胆に力強く証ししたこと、この三つです。五千人もの人が心を

一つにすることができたのは、一人の主イエス・キリストに心を合わせたからです。

わたしたちの罪のために十字架に架けられ殺されたが神が死者の中から復活させられ

たキリスト、苦難を通してわたしたちに救いをもたらす神のメシアの生きた働きが聖

霊によって心に迫り、深みにまで新しくされた人々を生み出しています。彼らは、も

はや生きているのは私ではなくキリストだと告白することにおいて一つにされている

のです。また、彼らがしなければならない仕事、務め、すなわち、大胆に福音を宣べ

伝え、癒しをすることの緊急性の自覚があります。自分の財産をつくり出したり守っ

たりすることよりももっと必要な、もっとやりがいのある共同の仕事が目の前にある

のです。したがって、自分のものだと主張しないという行為は、キリストによって与

えられた解放と自由を、更に自由に用いるための行動でした。自分のために生きるこ

とから神の御心に従って生きる生活へ、自分の必要を満たすための生きることから他

者への配慮に生きることを喜ぶ生活への大胆な展開です。そのように考えると、主が

生きて働いておられるところでは、どこででも、どの時代にも、同じような行為が見

られないはずはありません。


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