使徒言行録5:12-26
ここにある二つの物語、しるしと不思議とが使徒たちの手で行われ、人々は病人を 公道に運び出してペテロが通るときその影にでも当たるようにし、癒してもらったこ とと、使徒たちが獄に捕らえられていると真夜中に主のみ使いがきて鎖を解き、扉を 開け放ったこと・・・。 興味深い表現がここにあります。多くの民衆に囲まれ、「多くの男女が主を信じて、 その数はますます増えていった」ということばと、「ほかのものは誰一人あえて仲間 に加わろうとはしなかった」というまるで矛盾することが書かれています。これは、 多くの民衆が集まってきたが、指導者たちは仲間に加わろうとはしなかったというこ とだと理解する人もいます。しかしそのようには書かれていません。むしろ、ここで、 主を信じるものの仲間と周囲の社会との間に独特の壁、距離、緊張関係があったこと を伺わせます。使徒たちの集まりと宣教と奉仕は密室で行われたのではありません。 しるしと不思議は多くの人の知るところです。深い期待と好意で集まってきます。し かし、それがただちにその群れに加わらせることに直結しないのです。独特の壁、距 離感があります。カルヴァンはこれを神の聖なる力を目の当たりにして自らの罪に気 づかされたものの畏れと解釈しています。聖なるのもにふれて簡単には近づけないも のを感じているのです。それは二種類の行動を生み出します。恐れて遠ざかる行動と、 恐れるゆえに真剣に自らを深く省みつつ主に近づけられて行く行動と、この正反対の 動きです。「多くの男女が主を信じ・・・」という記述は、このような心の動きを経 由したものの行動をあらわしていると理解することができるでしょう。使徒たちを通 して招かれる主の招きがそのような性格を持っているとすれば、それは、わたしたち の内にも経験し、よく起こる感覚と言えます。 つぎに、使徒たちが祭司長らの妬みによって捕らえられ、牢獄に入れられたとき主 の使いが彼らを真夜中のうちに解放したという奇跡。ここで注目すべきは、主の使い が使徒たちを解放するその解放の仕方です。ほふり場に引かれていく羊のように無力 な使徒たちは、しかし主の御手の内にあります。その御手はどのような暗闇、どのよ うな閉ざされた場所にも届きます。そしてそこから導き出すとき、ただ鎖を解き、獄 の戸を開け放つことによって彼らを解放するのではありません。「神殿の境内に行っ て、この命の言葉を残らず民衆に告げなさい」という使命を与えて、命の言葉のもつ ものとして、また命の言葉を告げるものとして解放しているのです。聖霊による招き、 また、解放は、まさにこのようです。