使徒言行録5:27-32
使徒たちが御使いによって牢獄から解放され、再び神殿の境内で神の言葉を述べ伝 えていたところを、再び捕らえられて最高法院の審問の場へと引き出される場面、こ こでの大祭司とペテロたちの問答に注目してみましょう。大祭司は、「あの名によっ て教えてはならないと厳しく命じておいたではないか。それなのにお前たちはエルサ レムの中に自分の教えを広め、あの男の血を流した責任をわれわれに負わせようとし ている」といい、ペテロと使徒たちは「人間に従うよりも、神に従わなければなりま せん・・・」といっています。裁くものと裁かれるものとの関係が成立せず、すれ違 いの会話になっています。教会がこの世と接触する場合の一つの典型的な構造がここ にあります。 大祭司の問いかけは、使徒たちの罪を明らかにするというよりは、自己弁護と自己 正当化の意図の方が強く出ています。「あの男の血の責任」を自らが問われているこ とを感じているのです。彼らが満場一致で死にあたるものと断定して、ポンテオ・ピ ラトに引き渡した「あの男」の存在に脅かされているのです。しかし、彼らはその問 いかけに正しく向き合っていません。もし、正しく向き合っていたら、「あの男」の 血は、彼らを憎しみと報復の対象とするのではなく、むしろ、悔い改めと赦しと新し い命に導くものだという使信に触れたはずです。しかし、向き合うことがないので、 懸命に自己正当化、自分を罪なきものにするために新しい罪を重ねているのです。こ こに、主イエス・キリストの十字架と復活を通して語られる福音の使信が命の言葉に ならない人間の心の構造を見る思いがします。 ペテロと使徒たちは、恐れることなく大胆に、「人間に従うよりも神に・・・」と、 先にペテロとヨハネが同じ場所で審問されたときと同じことを言っています。最高法 院の決定を人間のことにすぎないと見抜いているのです。しかし、ここで学ぶべきこ とはこの大胆さだけではありません。これだけでは教祖に盲従するオウム真理教のよ うな世界と変わりません。むしろ、ペテロや使徒たちが人間のことと神のこととを見 分ける境界線をどこで見出したかを理解することが大切です。この基準を「あなた方 が殺したが、神がよみがえらされた」という展開の中で見出した神の救い、命への導 きに求めています。主イエス・キリストの死と復活を通して知る神の救いの計画の展 開、ここには神の貧しさがあり、愛があり、自己正当化の堅い枠を打ち破る人知を超 えた知恵があります。主イエスの死と命を通して語られる言葉が宗教の外貌を取った 人間の言葉と強制を見抜いているのです。