使徒言行録6:1-8
教会の職務のなかに牧師や長老とならんで「執事」という職務があります。わたし たちの教会でも執事制を取り入れようと計画していますが、初代教会で執事が選ばれ るようになったいきさつがここに記されています。執事という職務の基本的な性格を 考える古典的な箇所です。 ここで7人の執事(奉仕者)が選ばれたのですが、いくつかの大切な背景を確認し ておかなければなりません。まず、初代の教会では「日々の分配」が行われていた、 ということ、すなわち教会は礼拝をするためにだけ人々が集まっていたのではなく、 貧しい人や困っている仲間のために、パンが配られていたということです。第二に、 初代教会の中に大きな二つのグループができていたということです。ギリシャ語を話 すユダヤ人とヘブライ語を話すユダヤ人という、社会的・文化的・言語的に異なる大 きなグループがあって対立をはらんでいました。エルサレムの教会、同じキリストを 信じる群れ、同じ旧約の信仰の基盤を持った人々の間にも、生活習慣が大きく違う人 々が集まるとき、差別や互いの誇り、実際の生活の中での誤解など対立の種が多くあ ったことは想像できます。「ギリシャ語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダ ヤ人に対して、・・・仲間のやもめが軽んじられていた」ことに苦情が出たと記され ています。簡単な対立の構造ですが、しかしこれは、同時多発テロによって今世界を 揺るがしている21世紀の「文明の衝突」などといわれている事態の対立の構造の基 本に通じるものだといえます。 ここで、「12人」すなわち使徒たちが取った判断、解決の方向が教会の職務を決 定的に方向付けます。二つの判断があります。キリストの教会の仕える働きは、神の 言葉と祈りに専念する職務と日々の分配のための職務とがあって、両者は混同すべき ではないという判断、と日々の分配のための職務に当たるふさわしい者を会衆の中か ら選び出すべきだという判断です。当たり前の人間的な合理的な判断ですが、しかし、 そこにキリストの福音に生きる者の理性と秩序感覚を伺い知ることができます。信仰 は生活であってこれを切り離してはならないとかたくなに考えれば、使徒たちが「祈 りと御言葉の奉仕に専念したい」と申し出たことに対して愛の欠如と判断したかも知 れません。また教会は祈りと礼拝に専念すべきであって日常生活を持ち込むべきでは ない。食糧の分配などではないと考えれば、日々の分配のために7人もの「霊と知恵 に満ちた人」が選ばれたことを無駄なことと感じる人もいるでしょう。しかし、教会 はこの二つの判断によって、この世に存在するキリストの体の秩序を保ったのです。