使徒言行録7:1-53
殉教者ステファノの長い説教は聴いている人の憤激を呼び起こし、ついに町の外に ひきだされ、石で打ち殺されるという結果になりました。このような憤激を呼び起こ す福音、死を招来する宣教とはいったい何なのか、これは同じ福音を信じ、宣べ伝え るものには、ある覚悟を迫るものがあります。 「解放された奴隷の会堂」の人々はステファノを「この男はこの聖なる場所と律法 をけなして一向にやめません」と訴えています。これはいわれのない誤解に基づくも のか、正当な訴えなのか、ステファノの語るところに耳を傾けてみましょう。ここで 語られているのは、神の民イスラエルの歴史です。アブラハムがカルデアのウルから 出発して、カナンの地にいたり、ヨセフの数奇な生涯を通して民はエジプトに移住し、 さらにモーセに率いられて奴隷の家から脱出したあの旧約の民の歴史です。このよう な歴史の回顧から一転して、目の前にいる人々に向かって、「かたくなで心と耳に割 礼を受けていない人たち、あなた方はいつも聖霊に逆らっています。・・・彼らは正 しい方の来られるのを預言した人々を殺しました。そして今や、あなた方がその方を 裏切るもの、殺すものとなった」というのです。イスラエルの歴史を、アブラハムや ヨセフ、モーセ、ダビデなどの信仰の偉人たちの系譜を継ぐ歴史としてではなく、む しろ神から遣わされた人々に対する反逆の歴史として描いています。エルサレムの神 殿や律法も、目に見えない、人間の手で造られない、神の命の言葉そのものに向かわ せません。 ステファノが神の民の反逆の歴史を描くのは、自虐的な歴史観に基づくものからな のでしょうか。ステファノの意図は全く別のところにあります。反抗する民の歴史は、 イエス・キリストによって担われ、引き受けられた罪の歴史です。神のあわれみの深 さがどれほどに深いかを示す歴史です。福音は人間の罪をこのように現す作業を必然 とするとしたら、その結果としてこのような怒りに出会うことを必然とします。