使徒言行録7:54-8:3
ステファノの殉教の死は、正しい裁判によったものなのか、それとも激昂した人々 の集団的な暴力によるものなのかはっきりしません。ステファノの言葉に「大声で叫 びながら耳を手でふさぎ、ステファノめがけて一斉に襲い掛かり、都の外へ引きずり 出して石を投げ始めた」という次第で、ついに死を迎えることになったのです。不思 議なことに、ステファノ自身も、また教会も、このようなかたちでの処刑に対して、 強く抗議するという姿勢はほとんど示していません。当然の結果として受け入れてい るように見えます。最高法院における演説は、イスラエルの神に対する反逆の歴史と して描くと共に、「あなた方」をキリストを裏切る者、殺す者として明らかにしまし た。耳障りのよい言葉を語ったのではありません。ナザレのイエスはあなた方の裁き によって十字架につけられたのではない。神がそれによってあなた方と父祖たちの罪 を裁かれたのだと語るのです。福音は人間の誇りや威信を打ち砕き、神の恵みから生 きることを促します。それは生き方の転換を要求しますから、激しい抵抗と怒りに会 うのは必定であることを教会は知っているのです。 さて、このような人々の反応、福音が厚い壁に阻まれたとき、ステファノはどのよ うに振る舞い、どのように祈ったのか、ここがポイントです。ステファノの最期は、 だれもが心動かされずにはやみません。彼は、天を見上げ、そこに「天が開いて、人 の子が神の右に立っておられるのが見える」というのです。この場合、ステファノが 目を向けるのは天以外のところではありません。人々の救いのない、出口のない事態 に直面するとき、それ以外のどこに目を向けることができるでしょう。しかしステフ ァノは天を見上げるとき、ただ青い空、空虚な何もない天、人工物の天井を見るので はありません。神の右にいるキリストを見るのです。しかも、このキリストは「人の 子」と記されています。単に栄光のキリストではありません。人の子、人の世の重荷 と孤独、人間の罪を負って十字架につけられたキリストが、復活し、天にいて立ち上 がっているのを見るのです。このキリストを見るとき、次に発せられる彼の言葉は、 キリストの十字架上の言葉と同じ言葉でした。「この罪を彼らに負わせないでくださ い・・・」天にいますキリストを見、その心と会わせるとき、その死の様と等しくな っているのです。死の恐れや痛みは背後に退いて、むしろ栄光と喜びが包んでいます。 このような視野の広がり、危機に及んで天が開かれ、人の子が見えるというのは、ス テファノだけに許された特別のものではないでしょう。キリスト者が知っている天と 地です。