10月7日
2001年10月7日

「イミタティオ・クリツティ・キリストに倣いて」

使徒言行録7:54-8:3


 ステファノの殉教の死は、正しい裁判によったものなのか、それとも激昂した人々

の集団的な暴力によるものなのかはっきりしません。ステファノの言葉に「大声で叫

びながら耳を手でふさぎ、ステファノめがけて一斉に襲い掛かり、都の外へ引きずり

出して石を投げ始めた」という次第で、ついに死を迎えることになったのです。不思

議なことに、ステファノ自身も、また教会も、このようなかたちでの処刑に対して、

強く抗議するという姿勢はほとんど示していません。当然の結果として受け入れてい

るように見えます。最高法院における演説は、イスラエルの神に対する反逆の歴史と

して描くと共に、「あなた方」をキリストを裏切る者、殺す者として明らかにしまし

た。耳障りのよい言葉を語ったのではありません。ナザレのイエスはあなた方の裁き

によって十字架につけられたのではない。神がそれによってあなた方と父祖たちの罪

を裁かれたのだと語るのです。福音は人間の誇りや威信を打ち砕き、神の恵みから生

きることを促します。それは生き方の転換を要求しますから、激しい抵抗と怒りに会

うのは必定であることを教会は知っているのです。

 さて、このような人々の反応、福音が厚い壁に阻まれたとき、ステファノはどのよ

うに振る舞い、どのように祈ったのか、ここがポイントです。ステファノの最期は、

だれもが心動かされずにはやみません。彼は、天を見上げ、そこに「天が開いて、人

の子が神の右に立っておられるのが見える」というのです。この場合、ステファノが

目を向けるのは天以外のところではありません。人々の救いのない、出口のない事態

に直面するとき、それ以外のどこに目を向けることができるでしょう。しかしステフ

ァノは天を見上げるとき、ただ青い空、空虚な何もない天、人工物の天井を見るので

はありません。神の右にいるキリストを見るのです。しかも、このキリストは「人の

子」と記されています。単に栄光のキリストではありません。人の子、人の世の重荷

と孤独、人間の罪を負って十字架につけられたキリストが、復活し、天にいて立ち上

がっているのを見るのです。このキリストを見るとき、次に発せられる彼の言葉は、

キリストの十字架上の言葉と同じ言葉でした。「この罪を彼らに負わせないでくださ

い・・・」天にいますキリストを見、その心と会わせるとき、その死の様と等しくな

っているのです。死の恐れや痛みは背後に退いて、むしろ栄光と喜びが包んでいます。

このような視野の広がり、危機に及んで天が開かれ、人の子が見えるというのは、ス

テファノだけに許された特別のものではないでしょう。キリスト者が知っている天と

地です。


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