使徒言行録8:26-40
伝道者フィルポは、成功の地サマリアからガザへ向かう「寂しい道」へと導き出さ れます。そこでエチオピアの宦官を洗礼に導き、喜びに満たされた旅へと変えます。 ここではじめて異邦人であるエチオピア人がキリスト者の群に入れられ、そして、こ こであからさまに預言者イザヤによって預言された「苦難の僕」と主イエス・キリス トが結びつけられて伝道がされています。この二つの新しいことは福音の伝道の歴史 を大きく新しいことに向かって展開させます。 エチオピアの宦官は不思議な人です。女王カンダケの財産を全部管理している人で ありながらエルサレムに巡礼に行き、聖書を読みながら馬車で帰路についているので す。カンダケはエチオピアの王・太陽神の子の母でした。そのような祭祀国家の中枢 にいた財務大臣が、異邦の地ユダヤの神を礼拝するためにはるばる旅をし、預言者イ ザヤの書を読んでいるのです。宗教の虚構と表と裏を知り尽くした人であるからこそ、 真の神を求める感性が研ぎすまされたのでしょうか。しかし、この宦官は、深い信仰 と熱意を持ってエルサレムの神殿に巡礼に赴き、そこで礼拝しても、二重の意味で神 からは遠い存在です。異邦人であるという壁、宦官(去勢された者)という壁があっ て、神に近くあろうとすればするほど生きた交わりははばまれます。その彼がイザヤ 書の苦難の僕を読んでいるのです。その打たれた傷によって多くの罪のとりなしをし た苦難の僕の預言です。ここに記されている僕は一体誰なのかと真剣に問うているの です。 ここに伝道者フィリポが主の霊によって促されて近づき、一緒に馬車に乗って共に 聖書をひもときながら、そこに語られている苦難の僕こそ十字架の上で死なれ、三日 目によみがえられた主イエス・キリストであることが明らかにされます。神はもはや 遠くにあって律法の議を通して交わる方ではなく、またユダヤ人のみに福音をもたら す方ではありません。神の身分であることを固執すべき事とは思わず、換えって自分 を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられたイエス・キリスト、神はわた したちと共にあり、わたしたちのために、わたしたちに代わって罪と死を担いたもう 方であることが明らかにされたのです。 「ここに水があります。洗礼を受けるのに何か妨げがあるでしょうか」という宦官 の問いは、まさにこの妨げを神の側から取り除かれたことを知る者の激しい感動をあ らわしています。罪の赦しを与える福音、十字架の言葉は、まさに最もそれを必要と している人のところに、最も必要としている言葉をたずさえてもたらされたのでした。