テモテへの手紙T1章12−17
イエス・キリストがどのようなお方であるかについて、テモテへの手紙では、表 題のような簡潔な言葉で表現しています。これは初代教会のキリスト者たちが礼拝 の中で讃美として歌ったものと考えられます。イエス・キリストの生涯の意味が何 であったかについて考えるとき、このとぎすまされた一言で言い表されるにいたる までにはかなりの信仰の闘い、そして聖霊の導きがなければなりません。イエス・ キリストに対する信仰の核心部分を一言でとらえたものですから、このことばは時 代を超え、国を超えてどこででも主イエス・キリストと出会う人は、この言葉がま ことに信じることができ、受け入れる価値のあるものとして受け入れ、この言葉に よって、福音を人々に告げ知らせてきたのです。 テモテへの手紙の中で、この言葉がどのような位置に置かれているかについて、 興味深いことに気づかされます。この手紙ではしばしば「俗悪で愚にもつかない作 り話」や「俗悪な無駄話」に対する警戒が呼びかけられています。宗教生活が奇妙 な俗悪さと無駄話に終始するのは、現代でもそこ、ここ、に見受けられますが、初 代教会の第二世代はそのような似て非なる信仰のありかたとの闘いがありました。 その中でたくましい信仰の実践を生み出し、確実な愛と自由と救いを与えうるイエ ス・キリストへの信仰、「健全な教え、健全なことば」に従って生きるように強く すすめられます。こうして信仰に照らされた「正しい良心」をもって上品で落ち着 いた生活をするように、というのです。さて、このような穏やかで落ちついた生活 をすることができるため健全な言葉とはなにか、その鍵を握るのが「キリスト・イ エスは罪人を救うために世に来られた」という言葉です。 どうして、このようにイエス・キリストを認めるとき「清い心と、正しい良心と、 純真な信仰から生じる愛」が生まれて来るのでしょうか。それを理解するために、 この言葉のすぐ後に語られている、「わたしはその罪人の第一のものです」という 言葉と合わせて考える必要があります。わたしたちを俗悪な無駄話にふけらせ、粗 野で乱暴な言葉を語るものにするのはなにか、穏やかで品位のある生活をすること を阻むものはなにか、それは自分の誇りです。自分の力で生きようとする不安とむ なしい誇りから解放されるのは、無条件に罪を赦してくださるイエス・キリストを 知ることと、自分自身がその罪人の第一のものと知る、そこから自分と他者をみる ということ以外にはありません。秋山牧師の説教集インデックスへ戻る