11月11日
2001年11月11日

「信頼と疑いの狭間にて」

使徒言行録9:19b-31


 パウロがダマスコ途上で天からの光に照らされ、劇的な回心をした後、ダマスコで

洗礼を受け、キリスト者としての歩みを始めたこと、ここに、わたしたちにとっても

深い関心のある問題が提起されています。人はキリストを信じるものとなることによ

って、どのようにこの世で生きて行くのか。百人百様の生き方があるはずですが、パ

ウロの場合を考えることによって、キリスト者すべてに通底する共通体験というべき

ものを見出すことが出来ます。

 それにしても、このサウロという若者は行動的な人です。それまでの生き方を18

0度転回させて、洗礼を受けると、「ダマスコの弟子たちと一緒にいて、すぐあちこ

ちの会堂で『この人こそ神の子である』とイエスのことを宣べ伝え始めた」というの

です。人々の驚愕、戸惑いは当然です。このように、ただキリスト者であることを公

表するばかりか、福音を伝える者となるということは何を意味しているでしょう。自

分を人々の前に変節漢・裏切り者、失敗者・挫折者としてさらすということ。全く軽

薄な人間であること、したがって、もはやユダヤ人の共同体で尊敬すべきラビとして

の将来は消えたということです。パウロのキリスト者としての歩みは、このように自

分を捨てることからはじまっています。

 どうしてそのような不利益なことをするのか。「この人こそ神の子」と、イエスに

ついて伝える彼自身のメッセージの中に、その秘密が隠されています。パウロはロー

マの信徒への手紙の冒頭で、「御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる

霊によれば、死者の中からの復活により神の子と定められたのです。この方が、わた

したちの主イエス・キリストです」と、ここにパウロの伝えている福音の中心がある

ことを明らかにしています。従って、このイエスこそ神の子、という短い言葉の奥深

い意味を解きほぐすのに、ローマ書全体がかかっています。義人はいない、すべての

人が罪と死の奴隷となっている現実。しかし、罪人のために御子をおしまないで与え

たもう神の愛、罪人のために御自身の命を引き渡されるイエス・キリスト、この方が

よみがえらされて、サウロ、サウロと呼びかけてくださる。パウロは、この神の御子

を知っています。その神の御子を知って、心の支えとし、慰め手として心に持ってい

るだけに留まらず、あえて、この方について宣べ伝える者となるのはなぜか。それは

この方が生きていてそのように呼びかけるからです。自分の中の感動が特別に大きか

ったら、また特別に雄弁の才に恵まれているからではなく、パウロを福音を宣べ伝え

るようにと生きた方が呼び出し、促すからです。


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